2011/11/01

23(第一部)

 シャーデーは、私が洋楽ディレクターとして担当したアーティストの中で私個人にとって最も大きな影響と結果をもたらしたアーティストでした。別の意味で、例えばマイケル・ジャクソンの場合のように、私に大きな影響と結果をもたらしたアーティスト達は他にもたくさんいましたが、シャーデーのケースは少し事情が違いました。既にシャーデーについては今回で3回にわたって書き続けていますが、私自身にとっては色々な意味で決して忘れることの出来ないアーティストなのです。

 シャーデーのアメリカでの成功とその時期に前後したアーティスト自身の変化については前回触れましたが、その延長として、私が日本の一担当者の枠を越えてアーティストのプロデュースに関与するような動きを試みたことは、洋楽ディレクターとしての限界と会社組織の硬直性、海外アーティストに対する日本の会社のコンプレックスをもろに表面化させる結果になりました。

 私は、CBS/カリフォルニアのラーキン・アーノルドという大物プロデューサーを訪ねました。彼は1986年当時38歳で、CBSのブラックミュージックカタログ充実のために招かれ、ロスアンゼルスで精力的な仕事をしていました。CBSはマイケル・ジャクソンとジャクソンズの大きな成功に刺激されて西海岸を中心としたブラックミュージックのアーティストの発掘に力を入れるためにラーキン・アーノルドに予算と権限を与えて、それまでのCBS契約アーティストの見直しや新人の発掘、他社からの移籍アーティストの獲得などを進めさせていました。結果として3年余の在任中に大きなヒットを出すことは出来ませんでしたが、彼の存在は当時のブラックミュージック界では極めて大きくなっていました。

 私は、その頃新作を発表した直後のビル・ウィザースがロスアンゼルスを中心にライブツアーを始めたことを知り、シャーデーの最も敬愛するビル・ウィザースを一目生で見ておきたいと思って会社にアメリカ出張の申請を出しました。そして同時にラーキン・アーノルドとのミーティングをセッティングしたのです。この出張申請は一筋縄ではいきませんでした。出張の目的とその効果を巡って、上司や管理部などからチェックが入り、結局トップの一言でやっとお許しが出るという始末でした。この時の上司とのやり取りの中で、日本の洋楽ディレクター、一担当者としての限界を感じたのですが、要は日本の一担当者がアーティストや本国CBSに対して何らかの提案や相談を持ちかけることすらすべきではないという考え方です。そこにはお金の計算も絡んできて、出張の経費とその効果、つまり、この出張が具体的にどれだけ会社の売上につながるのかといった議論になってゆくにつれて、私の気持ちは急激に冷めてゆきました。

 結果として、私はラーキン・アーノルドに面会し、また彼の取り計らいでビル・ウィザースのコンサートに2晩にわたって招待され、本人とマネージャーにも食事をしながら会うという機会に恵まれました。ラーキンは私の提案に真剣に耳を傾けて、しかし冷静に彼なりの判断を示してくれました。すなわち、こうしたアイディアはあくまでアーティスト同士の直感的なインスピレーションによるケースが多いこと、またプロデューサーの強い意向で実現させるにしても双方の利害に対する客観的な情報が必要なこと、そのプロジェクトの中心になる者は双方の利害に対するリスクをどれだけ取ることが出来るか、といった内容でした。またラーキン自身にその役割を演じるつもりがないかと尋ねたところ、彼はにこやかに微笑しながら、シャーデーには彼自身が全く興味がないと答え、ビル・ウィザースについては、プロデュースは全面的に本人に任せているので直接本人に聞いて欲しい、ということでした。私がビル・ウィザースと彼のマネージャーとの会食をすることになったのは、そうしたラーキンの判断と彼のセッティングによって実現したのです。

 私はこの時のラーキン・アーノルドの態度、判断、その後のアクションの全てに感銘を受けました。全てが明快で、的確で、かつとてもスピーディーであったからです。そして、彼の一言、「このアイディアは君の物なのだから君がやるべきことだ」と言われた時にはまさに眼からウロコの心境でした。

 ビル・ウィザースとの面会は感動的なものでしたが、残念ながら彼はシャーデーのことを全くと言ってよいほど知らなかったのです。私は、アルバムやカセット、パブリシティ・コピーなどの資料を持っていきましたが、彼のマネージャーが「スムース・オペレーター」を知っていた程度で、ほとんど彼女については知識も情報も関心も持っていませんでした。
 ある意味では、ビル・ウィザースはモーリス・ホワイト(第16回参照)とは正反対の人物で、どこか浮世離れした芸術家のイメージが感じられる人物でした。コマーシャリズムとは一線を画した姿勢、実はシャーデーが敬愛する部分もまさにその点だったのかもしれません。

 マネージャーからの質問はもっと現実的でした。彼は、シャーデーのコンサートやレコーディングに何らかの形で参加することをシャーデーから依頼されて来たのか、と私に尋ね、そして、その条件は?と聞いてきました。もちろん、その時は未だ私のアイディアの段階であり、シャーデー側から依頼されてきた訳でもない事を伝えましたが、彼の失望の様子はありありと分かりました。

 このロスへの出張は、私のビジネス・キャリアの中でもとても大きな経験とショックを受けたものでした。アメリカ流の仕事のやり方、とくに個人の役割についての認識の違い、常に可能性を前提とした議論を行う姿勢、仕事の進め方と結論までのスピードの早さ・・・。現在の私にとってもとても重要な、海外とのビジネスを行う上での貴重な経験を積んだエピソードです。

22(第一部)

 1985年、シャーデー/SADEの鮮やかなアメリカ・デビューはシングル「スムース・オペレーター」のトップ10入りから始まりました。イースト・コーストからヒットし始めたこの曲は瞬く間に全米に飛び火して、あっという間にベスト5に入り、シングル・ヒットから間もないタイミングでアルバム「ダイヤモンド・ライフ」も発売されて、こちらもグングンとチャートをかけ上りました。イギリス本国や日本での大ヒットのニュースがアメリカのマスメディアの話題となっていたことが大きかったとはいえ、アメリカでのブレイクは予想をはるかに上回るスピードとスケールでした。ファースト・アルバムは米国で200万枚以上のセールスを記録してダブル・プラチナ・アルバムに認定され、シャーデーは一躍国際的なスターとして認知された訳です。

 このアメリカでの急激な成功はグループ、スタッフそして本人に大きな変化をもたらすことになりました。米CBSのマーケティング戦略がどのようなものであったかは今となっては定かではありませんが、結果としてその商業的な成功があまり長い期間は続かなかったことを見ると、どこかに無理な要素があったように思えてなりません。シャーデーは、セカンド・アルバム「プロミス」(1986年)では全世界で100万枚以上のセールスを記録しましたが、サード・アルバム「ストロンガー・ザン・プライド」(1987年)ではアルバムの高いクォリティの割にセールスは伸び悩みました。熱狂的な支持者がたくさんいたことは確かですが、ポップなヒット・アーティストというよりは純粋にスタイリッシュなヴォーカリストとしての道を歩み始めて、いわゆるポップ・スターのようなマスコミへのコマーシャルなアクセスを意識的に避けるようになったようです。

 こうした傾向は、実はアメリカ・デビューの直後に、というよりも既に日本でのキャンペーン来日の頃に、本人の言葉の端々から感じ取ることができました。マネージメントとレコード会社の考えは明らかに「ヒット志向」でした。実際に、彼らの音楽性やキャラクターは時代のニーズにマッチして、ビジネスとして世界的な成功に結びついたのですからアーティストに対するマネージメントとレコード会社の相対的な力関係は強まっていましたが、シャーデー本人としては、この成功を背景としたビジネス・サイドの強い意向に沿って今後の活動を続けることに対して少なからず反発があったのだと思います。

 さて、シャーデーは尊敬するアーティストとしていつもビル・ウィザース/Bill Withers の名を挙げていました。ビル・ウィザースは黒人男性シンガーとして80年代には既にベテランの域に達していた実力派です。彼のヴォーカルの魅力は一言で言えば「渋さ」ですが、落ち着いた雰囲気とジャズのセンスを併せもったソウル・シンガーとして、現在でも一線で活躍しています。80年代の初めにCBS レーベルから質の高いアルバムを何枚か出していましたが、その作品で彼はヴォーカリストとしてだけでなくソングライターとして、またプロデューサーとしてもトップクラスの実力を発揮していました。そして、そのビル・ウィザースやCBSレーベルのその他のブラック系アーティストを一手に担当していたのは、CBSカリフォルニアの敏腕プロデューサーで、かつては自らもミュージシャンとして活躍していたラーキン・アーノルド/Larkin Arnold です。

 私は一人のプロデューサーとして、シャーデーのアメリカでの成功の後の段階で、次の展開について色々と考えを巡らせていました。シャーデーの新しい境地をアーティスト的な面とビジネス的な面の両面でアピールし、さらに本格的なトップ・アーティストへと育てていくためには、それまでのCBS/UKとマネージメントのスタッフでは荷が重いのではないかと感じ始めていたのです。そこで思いついたのがラーキン・アーノルドのことでした。彼はシャーデーの担当ではありませんでしたが、ビル・ウィザースにとっては重要なアドバイザー的存在でしたので、私はシャーデーとビル・ウィザースの交流の可能性を探ろうと思ったのです。プロデュース、楽曲の提供、共演、ライブのゲスト、・・・、色々とこの二人のアーティストが直接、間接の関係を築くことが二人のどちらにとっても貴重なキャリアになると同時にコマーシャル的な効果ももたらすのではないかと考えたのです。

21(第一部)

 80年代の半ば頃、洋楽ポップスの世界では多くのイギリスのアーティストが世界的にブレイクしました。ワム! (ジョージ・マイケル)、カルチャークラブ、シンプリーレッド、ABC、ハワード・ジョーンズ、ユーリズミックス・・・。個性的で魅力的なアーティストがどんどん登場して、アメリカや日本でもヒットを飛ばし、アメリカのマスメディアでは"British Invasion"といわれるぐらいに多数のイギリス出身のアーティストがチャートの上位を占めていました。

 70年代の後半、イギリスでは不景気による社会不安と失業問題が深刻で、ポップスの世界でもパンク&ニューウェイブのアーティストが登場して政治的、メッセージ的な新しいロックミュージックの表現を模索する動きが活発になりました。それは、アメリカの60年代のベトナム反戦を契機として生まれたサイケデリック・ロックやフラワームーブメントなどと共通した背景を持っており、音楽のメッセージ性と社会性を通して新しい表現文化が生まれ始める契機となりました。パンク・ロックの破壊性と過激性は、60年代アメリカン・ロックのドラッグとの結びつきとは違って、暴力的なバイオレンスと結びついていったように思われます。

 このパンクをきっかけとして新しいロック表現がポップスにも大きな影響を与え、特にサウンドやリズムのアイディアとして第3世界の音楽、とりわけジャマイカやプエルトリコの民族音楽との融合によって、後にレゲエの世界的な大ブームが起こります。70年代のブリティッシュ・パンクのトップ・アーティストといわれるセックス・ピストルズ、クラッシュ、ストラングラーズ等は多くのレゲエ・ナンバーを作っており、ボブ・マーレーを筆頭とする第3世界のミュージシャンとの密接な関係もよく知られています。

 80年代の半ばになるとイギリスは徐々に経済も回復し、音楽業界もパンクやニューウェイブの刺激を受けた新しいアーティストの台頭によって世界的なスターを登場させました。私の場合はCBS/UKのアーティスト、特にワム!とシャーデーは今でも忘れられないアーティストです。

  この2組のアーティストには重要な共通項があります。ポーカリストで主役の二人、ジョージ・マイケルとシャーデーが共にアメリカの60-70年代の黒人音楽に強い影響を受けていることです。ジョージ・マイケルはモータウンやフィラデルフィア・ソウルのソフトな感覚を身に付けていて、一方シャーデーはブルックリン・サウンドやアトランティツク・ソウルの影響を受けています。また共にミュージシャンや音楽好きの家系の育ちであり、子供時代からアダルトなアメリカ音楽に接して来たことから、二人とも年令の割にセクシーでソフィストケートされた歌い方を身に付けていました。二人のデビューの仕方は全く正反対で、それぞれはアイドルとジャズ系グループというイメージで登場しましたが、実は多くの点で共通するセンスがあったのです。

 私はシャーデーの担当となったのですが、実はイギリスでのデビュー当時から特に注目していたと言う訳ではありませんでした。私の担当ジャンルは基本的にはアメリカの黒人音楽であったためにイギリスのアーティストには余り注意を払っていなかったのです。CBS/UKのリストの中にも何人かの才能ある黒人アーティスト(エディ・グラント、ビリー・オーシャンなど)がおり、彼等も私の担当ではあったのですが、シャーデーのデビューにはほとんど気が付かない状態でした。ナイジェリアの出身であることや彼女を取り巻くバンドのメンバー達がいずれもイギリスのスタジオ・ミュージシャンとしてハイレベルの実力を持っていたことなど、バイオグラフィーに記されていたことを実感したのは、デビューから半年以上も経ってからの事でした。

 シャーデーは83年の秋に"Yuor Love Is King"というシングルでデビュー、このミディアムスローのラプソングは全英チャートをじわじわと上がってついにベストテン入りします。CBS/UKはプライオリティ・アーティストとしてのキャンペーンを開始、84年の初めから全英クラブツアーをスタートさせました。そして、同じ頃にロンドンに在住する一人の日本人カメラマンから手紙をもらったのです。彼はブリティッシュ・ロックをこよなく愛し、日本にイギリスのアーティストたちを多数紹介してきたユニークなカメラマンで、日本のロック雑誌や音楽メディアなどにしばしば彼の写真やコンサート・レポート等を発表していました。

 その彼がシャーデーにいち早く注目して、日本でも必ずブレイクすると確信して私達に手紙をくれたのです。彼はシャーデーのツアーに自主的に同行して、ライブやオフの写真を撮り続けていました。その写真はとても印象的で、個性豊かなシャーデーの魅力、グループ全体のオシャレでスマートなイメージを見事に捉えたものでした。この彼の手紙をきっかけとして、私は初めてシャーデーの存在をはっきりと認識したのです。私は彼の勧めに応じて、早速CBS/UKを通じてシャーデーのライブを観に行くことにしました。

 ツアーの予定地とCBS/UKのあるロンドン、またそのカメラマン、トシ矢島氏のスケジュール等を調整して、私は84年3月にロンドンを経由してエジンバラへ赴きました。まだ雪が残る市街、第2次大戦の戦火を免れた建物がイギリスの古い街の佇まいを漂わせているエジンバラのダウンタウンの煤けたようなビルの地下にあるクラブハウスで、シャーデーのライブは午後9時頃に始まりました。レコードのリリースはデビュー・シングル1枚にも関わらず、既に相当の知名度があったのか、ライブは最初から熱狂的な雰囲気の中でスタート、私はその反響に驚くと同時に、自分の認識不足と世界の広さ、凄さを改めて思い知らされました。私はそのコンサートの事前にアルバムのデモテープで3曲を聞いていましたが、実際のステージでは15曲余りが演奏され、全体的に私の先入観よりもずっとホットでエネルギッシュな内容でした。クールでスタイリッシュ、そしてアンニュイなシャーデーの雰囲気とアーバン・ジャズ・コンテンポラリーのサウンド、というオシャレなグループ・イメージが現在でも"SADE"の一般的な捉えられ方でしょうが、この時のライブでのプレイぶりはメンバー全体の若々しさが前面に出ていて、とても気持ちの良い"ノリ"に溢れていました。

  ライブの終了後に矢島氏にメンバーを紹介され、初めてシャーデー本人と面会しましたが、その晩は初対面ということもあって彼女はほとんど何も話しませんでした。代わりにバンドのメンバー達が私に次々に日本の事を質問をし、矢島氏を通じてかなり色々な情報が伝わっていることを実感しました。矢島氏のような存在が日本への海外の新しいアーティストの発掘や紹介に大きな影響力をもっていること、また彼のように日本を離れて現地での厳しい競争の中でカメラマンとして欧米のトップクラスのアーティストと日常的に接触しアーティストの信頼を得て活動を続けることの凄さを見せつけられました。やがて矢島氏は"SADE"の専属オフィシャル・フォトグラファーとして認められ、アルバムのジャケットをはじめとしてメイン・ビジュアルのほとんどを手掛けることになりますが、世界的なスターとして育ってゆく過程を共に歩んでゆく立場として大きな喜びと責任を感じただろうと思います。

 現在では欧米で活躍する日本人の数はあらゆる分野で飛躍的に多くなってきましたが、自分の感性と技術だけを武器として活動するクリエーターとしての生き方は日本の国内だけであっても大変な努力と情熱、そして才能が必要です。さらに「運」や「ツキ」もなければとても成功は出来ないでしょう。まして欧米の業界には世界中から有能な人々が集まっています。矢島氏とシャーデーの関係はカメラマンとミュージシャンのお互いの感性がマッチし、双方にとってクリエイティブな刺激を得られる理想的な組み合わせが実現されていたようでした。私は矢島氏を通して改めて日本と欧米のショービジネスのあり方の違いやクリエーターの生き様の凄さ、素晴らしさを知りました。

20(第一部)

 今回は、前回まで2回に渡ってご紹介したジョージ・デュークとのエピソードの中にも登場した天才ベーシスト、スタンリー・クラークとのお話を書きたいと思います。

 スタンリー・クラーク/Stanley Clarkeは、70年代の前半にデビューしたベーシストの中でも飛び抜けた才能の持ち主で、チック・コリア、マイルス・デイビスらとのセッションで世界的に注目を集めました。驚異的なテクニックはもちろんですが、音楽性の豊かさ、高い作曲能力から生み出されるメロディアスなベースは、従来のリズム・プレイヤーとしてのベーシストの立場を根底から覆すほどの強いインパクトを与えました。彼のプレイの基本はベースと言う楽器をリード楽器の一つとして捉えている点で、過去のベーシストとは一線を画しています。それまでのジャズ・インプロビゼーション(ジャズの即興演奏)においてもベースの即興パートはもちろん存在していましたが、それはあくまでもリズム楽器としての位置付けでした。特にアコースティック・ベースの音域特性から、メインパートの立場はなかなか取りにくく、チャールズ・ミンガスやロン・カーターといったバンド・リーダーとしての才能を持ったベーシスト以外にはベースのリーダー・アルバムはほとんどありません。一方で、エレキ・ベースのジャズ・プレイヤーはフェンダー社製の素晴らしい楽器が登場するまではほとんど存在せず、ライブとレコーディングのどちらにも対応できる楽器としての表現力が確立する70年代の前半になって、ベテランのベーシストもやっとエレキ・ベースを使うようになりました。

 スタンリー・クラークはアコースティック・ベースのプレイヤーとしても素晴らしい技術と表現力をもっていますが、なんと言ってもエレキ・ベースの可能性を驚異的なテクニックで表現してみせた最初の人物であり、新しいジャズ/クロスオーバー・ミュージック/フュージョンの旗手として、チック・コリアのエレクトリック・ピアノとのコラボレーションで一世を風靡することになります。リターン・トゥ・フォーエバー/Return To Forever の衝撃的なデビューアルバムはジャズ・シーンに大きな転機を促した作品で、24才の天才ベーシスト、スタンリー・クラークを世界に知らしめた歴史的な作品です。
 
 私がこのアルバムを聞いたのは大学2年生の時で、神戸のシャズ喫茶でアルバイトをしている時でした。実はこのアルパム以前にスタンリー・クラークの存在は既に知っていました、アコースティック・ベースにエレクトリック・アダプターを取り付けたスタイルで一聴して今までとは違うスタイルであることが分かるプレイぶりで大変印象深かった思い出があります。でも、チック・コリアのこの新作は余りにも華やかで、斬新でした。グループとしてのサウンドの新しさに加えて、スタンリーの驚異的なテクニック、とくに高音域での目まぐるしい程のスピードに乗ったメロディアスなプレイは圧倒的なインバクトを持っていて、当時、お店のリクエスト・チャートのトップを数カ月間独占していました。

 私がEPICソニーに参加した時には、スタンリー・クラークはEPICレーベルの数少ないジャズ系アーティストの中で突出して有名な一人でした。実はEPICレーベルは、70年代の半ば頃、マイケル・ジャクソンとジャクソンズを筆頭として、そこそこの有名プラック・アーティストを抱えていましたが、ビジネスとしてはあまり成功していなかったのです。スタンリー・クラークも知名度の割には日米共にセールス的には大したことがなく、アーティストとしての実力は認められながらもレコード・セールスの面ではB級以下でした。でも私にとってはリターン・トゥ・フォーエバー以来の憧れのアーティストの一人であり、いずれ彼の担当者になるなどとは思ってもみなかったビッグな存在でした。

 78年、スタンリーは田園コロシアムで開かれたサマー・ジャズ・フェスティバルに出演するために来日しました。私は当時の担当者と共にそのコンサートを観に出かけ、楽屋で初めて彼と対面しました。身長190cm余りの引き締まった体躯、無精髭をはやして全身真っ白なステージ衣装で現れた彼の大きな手! 間近で見るスタンリーはやはり大物の風格を漂わせ、同行して来た奥さんはプロンドの白人女性で、それにも驚きましたが、人柄はどこかシャイで人なつこさを持っていて大変に好印象でした。その時はほんの一言二言の挨拶を交わした程度でしたが、その後、私が直接の担当者になってからはジョージ・デューク同様かなり深い交流を持つようになりました。

 80年にロスを訪れた時に、私はスタンリーに連絡を取り近況を聞かせてもらおうと思い、CBSの担当者に面会を申し入れたところ、彼は私の事を覚えていて快く自宅を訪問するようにと言ってくれました。CBSの担当者が住所のメモを渡してくれて、私はタクシーを手配し一人で彼の自宅を訪ねたのですが、それはハリウッドのスターたちの豪邸の建ち並ぶビバリーヒルズのど真ん中でプール、バスケットコート、リハーサル・スタジオを備えた素晴らしい建物でした。
 私はリビングに通され、3人の子供達にも紹介されて、例のブロンドの奥さんも交えてのアフタヌーン・ティーに招待されていたのですが、私はそうしたイギリス的な習慣の事も全く知らず、まるで大統領に面会する日本の新聞社の駐在員のようにガチガチに緊張してしまっていたことを思い出します。

 その後、彼との個人的な交流は度重なり、年に一、二度は面会してジャズとクラシックの関係の事、音楽教育と教材ビジネスのこと、ジョージ・デュークとの新しいプロジェクトの事、その他にも沢山の事を話し合ったり、相談したりしました。彼はほぼ毎年のように来日し、コンサートばかりでなく、映画音楽の制作、日本の若手ミュージシャンとのセミナー・セッション、音楽教育用のビデオ制作、CM音楽の録音など精力的に活動しました。アメリカでの活動と共に日本を大変に愛しているミュージシャンなのです。

 彼との最もおかしなエピソードといえば「高麗人参騒動」でしょう。その頃、彼は東洋医学や漢方薬に凝っていて、来日の度に私に指圧や太極拳の手配を頼んで来たのですが、ある時「高麗人参」を大量に買いたいと言ったのです。「高麗人参」は日本でも高価ですが、アメリカでは入手自体が困難な上に大変に高価なもので、その貴重価値もあってスタンリーは"Magic Jinsen"と表現して私に購入の方法を尋ねたのです。仕事が終わって帰国までの1日オフの日、私は事前に下調べをして何軒かの漢方薬専門店に問い合わせて、二人で「高麗人参」を買いに出かけました。まず、門前仲町、ここには東京江東区の下町で有名な漢方薬屋があり、以前に私が住んでいた場所で馴染みがありました。そこに着くと同時にスタンリーは満面に笑みを浮かべて、まるで子供が玩具屋へ言った時のように半ば興奮状態で手当りしだい目に付くものについて質問を浴びせて来るのです。そして、お目当ての高麗人参はもちろんあったのですが、皆さんも御存じのように「高麗人参エキス」を抽出するために焼酎やアルコールに漬けた丸い大きな瓶詰めに目が行ったのです。店主も面白半分に、その酒を試飲させてくれるということになったのですが、実はスタンリーは大変に酒に弱いのです。私がそのことを店主に告げると店主はザラメを入れて彼に勧めました。普段でも彼は酒に弱いくせに勧められると断わらない性格で、この時もショットグラス一杯をを一気に流し込んでしまいました。御機嫌の彼はその瓶詰めの作り方を教えろとせがみ、焼酎も買いたいと言いだす始末。結局、最初のこの店で1時間半余りを過ごして在庫のすべてを買う事になりました。店主が驚いて計算すると、当時の金額でおよそ20万円余。ところが彼は現金を持っておらずクレジットカードで支払うつもりだったのです。その頃の漢方薬屋ではクレジットカードを扱っている所などあるはずもなく、結局私の名刺を置いて後から請求書を送ってもらうことになりました。この店を出る頃にホロ酔い状態のスタンリーは、つぎはどこだと私に尋ね、つぎの浅草のお店でもまた一杯御馳走になり、またまた在庫一掃10万円也。最後に京橋のお店でも10万円分を追加して、やっと満足したようで、「お前も東京も最高だ!」などと言って、今までに見せたこともないような笑顔を浮かべホテルへ御帰還です。

 ホテルでは奥さんが心配そうに待っていました。総額で40万円余り、それでも大した量はありません。彼は楽しそうに一部始終を奥さんに話して聞かせました。実は彼の奥さんはかなりの実業家で、当時アメリカ西海岸地域のルイ・ヴィトン製品の独占販売権を持っていて、ビバリーヒルズのお金持ち向けに手広く商売をしていたらしく、この「高麗人参」の支払の事を聞くとすぐさまその場で小切手を切って私に渡してくれました。

 とにかく私にとっては、スタンリー・クラーク夫妻は色々な面でびっくりさせられたことが多かった二人だと思います。

19(第一部)

 アメリカのキーポード奏者/プロデューサーであるジョージ・デュークのお話がだいぶ長くなってきました。というのも、それだけ私にとっては大切な人物であり、また貴重な経験をさせてくれた素晴しい人であるからです。

 彼の日本初(実は世界初)の単独コンサートツアーは、1984年の10月に東京、大阪、名古屋、札幌で計5回開かれました。メンバーはジョージ・デューク(リーダー/キーボード/ボーカル)、ポール・ジャクソンJr.(ギター)、ルイス・ジョンソン(ベース) 、スティーブ・フェローン(ドラムス)の4人の大物スター・プレイヤーに若手のギタリストとパーカッション、バックボーカルを加えた超豪華メンバーで、さしずめ「ジョージ・デューク・オールスターズ」ともいうべき編成のバンドでした。私は来日メンバーのリストが送られてきた時に思わず目を疑ってしまうほど驚いた記憶があります。さらに、来日スケジュールの最終的な詰めの段階で、それに輪をかけて驚くべき 連絡が入りました。2人のゲスト・ボーカリストを連れて行く、というのです。その2人とは、当時フィル・コリンズとの共演で全米 No.1のヒットを飛ばしていたアース・ウインド&ファイアーのフィリップ・ベイリーとジョージのプロデュースで新作を発表したばかりのデニース・ウィリアムスだったのです。

 さかのぼること1年前、コンサートの計画を話すためにロスへ飛んだ時に、私はジョ ージにいろいろな提案と自分の「夢」を語りました。その中でジョージのボーカルについての私の考えを率直に述べたのです。私はボーカリストとしてのジョージの力量の限界とコンサートの成功のためには看板になるボーカリストが必要であることを説きました。こうした意見を面と向かって言うことはスターに対してはたいへん失礼なことですが、私たちは彼にとって初めてのリーダー・コンサートの実現のために何時間も真剣に腹を割って話しあったのです。彼は最終的に私の意見を聞き入れて、ゲスト・ボー カリストを選定し日本に連れて来るように動いてくれたのです。そのゲストがなんとフィリップ・ベイリーとデニース・ウィリアムスという願ってもないビック・ネームであり、さらにフィリップの単独来日もデニースの来日もいずれも初めてのことで、ファンにとってはまさに「夢の共演」が実現したのです。

  私は彼のイメージ作りの基本を「新しい時代のヒット・プロデューサー」であると考えていました。その時代、日本では、まだプロデューサーの存在感は作品の評価にとってさほど大きなものとはなっていませんでした。今でこそ小室哲哉氏のようにプロデューサーが中心となってヒットが生まれることが、当たり前のこととして受け止められるようになってきましたが、当時は洋楽ファンのコアの人々や音楽評論家など一部の人だけが、作品に関する情報やデータが少ない中でプロデューサーのクレジットに注目していた程度でした。一般的には作品の評価はあくまでもパフォーマーによっていたのです。私は当時、プラック・ミュージック界でヒットを連発していたプロデューサーに注目し、音楽雑誌やFM番組などを通してプロデューサー特集を組む企画を進めていました。クインシー・ジョーンズ、プリンス、テリー・ルイス、ナイル・ロジャース、そしてジョージ・デュークなどのプロデュース作品を広く紹介するためです。私はEPICレコードの一ディレクターでしたが、レコード会社やレーベルの枠を越えてメディアにさまざまな企画提案を行うことでブラック・ミュージック市場の拡大と新しい音楽エンタテインメントの普及を目指していました。私にとっての目先のライバルは他社ではなく、ロック・ミュージック界だったのかもしれません。

 ジョージ・デュークの初のコンサート・ツアーは5回の公演とも素晴らしい出来で評判は上々でした。客の入りは大阪、札幌が事前告知の不足や認知度の低さが原因でやや低迷したため全体として85%程度とソールドアウトにはなりませんでしたが、東京公演は熱気に溢れ、NHKのライブ・レコーディングも入るなど、初のコンサートとしては立派な結果だったと思います。本人としては正直なところ満点ではなかったようですが、彼のプロ意識からみれば当然でしょう。彼としては臨時編成のメンバーであることと、そのいずれもが売れっ子のスタジオ・ミュージシャンでもあり、リハーサルの時間が少なかったのだ、と釈明していました。彼のレベルからみれば確かにその通りでしょうが、我々の目と耳には流石に一流のプレイヤー達であることが随所に感じられ十分に内容の豊かなコンサートであったと思います。特に私にとってはコンサートの発案から実現までの全体をプロデュースした最初の経験であり、しかもアメリカのトップクラスのアーティストをこれだけ揃えた豪華なメンバーでの単独ツアーという企画は日本ではそれまでほとんど例のないものでした。それだけに一応の成功を収められたことに本当に安堵し、またジョージの温かい協力にとても感動しました。そして、ツアーが終わり見送りのために成田空港に同行した時、ジョージは「感謝している。来年もまたやろう」と言って、あの大きな手で強く握手してくれました。帰宅の途上、この仕事をしていて本当に良かった、と改めて思いました。

18(第一部)

 ジョージ・デューク/GeorgeDukeはジャズ・キーボードのプレイヤーとして若い頃からその才能を認められていましたが、一ピアニストという枠から完全に逸脱してマルチ・キーボード奏者、作曲家、アレンジャー、プロデューサーそしてついにはヴォーカルまで自らこなしてしまうマルチ・ミュージシャンへと成長していきます。その背景にはアメリカ音楽界の厳しい生存競争とビジネス・トレンドが関連していて、必ずしも実力だけでは生き残れない現実があります。とりわけブラック・アーティストの場合はどのような形であれプロとして「メシ」が食えるようになるだけでもたいへん高いハードルがあり、プロ・スポーツ選手の場合と同様に活躍できるフィールドもかなり限定されていて、その中での激しい競争が前提です。スポーツ選手の場合のケガのように実力以外の「運」の要素や家庭の経済力、人脈なども「才能」の開花のために重要な条件になることが多いために、才能がありながら世に認められずに消えていった人々も数えきれません。

 ジョージ・デュークはクラシック・ピアノの基礎の上でジャズからスタートしましたが、20代の頃はジャズ音楽界が大きく変貌し、クロスオーヴァー/フュージョンの全盛期へと入っていった時代で世代交代とともにロック&ポップスとの融合が進んでブラック・ミュージックそのものも激しく変化していた時代でした。アース・ウインド&ファイアーを筆頭とするプラック・ロックの動きやジョージ・クリントンを筆頭とするニュー・ファンクの登場、ハービー・ハンコックを中心としたニュー・ファンキー、ウェザーリポートなどのニュー・コンテンポラリー・ジャズの影響もあり、マンハッタン・トランスファーの成功やクール&ザ・ギャング、タワー・オブ・パワーなどの登場もこの時代です。ソウル界はダンス・オリエッテッドのポップ・ソウルがディスコの世界的な流行に後押しされて大衆化を果たして、ブラック層以外の全世界人種のポップスへと進化しました。ポップ・ソウルの2大レーベルだったモータウンとフィラデルフィア系のアーティストもディスコ・ブームに乗って世界的なスターを輩出してビジネスを成功させました。この時期のジヨージ・デュークは上に挙げたニュー・ファンクに近い分野で活動していてエキセントリックな音楽を展開していました。この頃の影響は80年代に入ってからも続いており、彼自身が考案した新楽器(ギター型のシンセサイザーでキーボードでありながらグリッサンド奏法ができるという画期的なもの、ギターのようにストラップを肩に掛けて演奏する)を使って、新しいサウンドを創り出すことにも積極的でした。

 彼のステージ活動は主にジャズ・クラブなどを中心としたもので、すでに60年代から始めていましたが、70年代の後半にジャズ界から離れてポップなR&B系のアーティストを目指してからは活動の中心はあくまでレコーディングでした。ミキシングとサウンドを重視するレコーディング・アーティスト/プロデューサーとしての活動が多くなると「音作り」に限界のあった当時のステージ・ライブはレコード・サウンドの再現という意味ではイメージダウンになることが多く、アース・ウインド&ファイアーのライブのように大掛かりなショーとしての演出を加えるなどしないと観客の印象度を上げることができません。これは当時のヒット・アーティストにとっては共通の課題で、レコード以外での収益を目指したいコンサートの開催がアーティストのその後にとって大きなリスクを伴うものになることはよく知られていました。ジョージ・デュークのような実力者にとってもそれは同じで、それだけレコーディングの技術が進歩し編集やミキシングによってサウンド・クォリティを上げることが可能になったために、レコーディングに凝れば凝るほどライブでの・再現が難しくなっていったのです。いわゆる「口パク」ライブで評判を落とした若手や新人のケースは論外としても、レコードでは極めつけに聞こえたギタリストの、ライブでのアドリブ・フレーズが「レコードと違う」ということだけで観客の不評を買うというケースもありました。

 80年の「ドリーム・オン」というアルバムとシングルカットされた「シャイン・オン」は日本でもディスコの定番曲になるほどのヒットを記録しましたが、ディスコで初めてジョージ・デュークを知った人がほとんどという状況ではコンサートの開催はまだ時期尚早というのが普通の判断です。実際のところ、国内のプロモーターからもコンサート来日の話は出てきませんでしたし、米本国でもライブの予定は全くありませんでした。当時のジョージ・デュークはプロデューサーとしての力量を買われてウェスト・コーストではトップ・クラスの評価を獲得し始めていて、その人柄や人脈もあってかなり忙しい日々を過ごしていました。彼の中にも自分自身のコンサート・ツアーという企画は100%なかったのです。CBS/EPIC系では実力派中堅女性ヴォーカリストのデニース・ウィリアムス、ワーナー系のシーウィンド、ジェームス・イングラムなどを手掛けており、いずれも前作を上回るセールスとなってプロデューサー業はますます盛況になっていました。

  私はEPICレーベルで、このジョージ・デュークと共にグループ活動をしていた大物ベーシストのスタンリー・クラークも担当していましたが、クラーク/デューク・プロジェクトというユニットの作品に心酔していました。ジャズ/クロスオーヴァーのテイストをうまく残しながらポップなサウンドを取り入れて、インストゥルメンタルのアドリブも2人の実力をきっちり聞かせてくれる充実した作品で、ライブでも十分以上に再現できると思っていたのです。このクラーク/デューク・プロジェクトの来日コンサートが実現すれば2人の実力者をあらためて日本の人々にアピールできるに違いないと考えていました。「シャイン・オン」のヒットはたいへんよいきっかけになり得ると思ったのです。つまり、私の個人的な「夢」として、クラーク/デューク・プロジェクトのライブを実現して、そのコンサートでスタンリー・クラークも参加したスペシャル・バージョンの「シャイン・オン」を聞いてみたいと思ったのです。

 ジョージ・デューク本人へのプロモーションを兼ねた国際電話インタビューの時に、私は自分のアイディアを話しました。彼はご機嫌取りのジョークと受け止めたらしく、軽く笑いながら「それはエキサイティングだ」と答えましたが、こちらが本気で実現したいことを言い始めると予想通りいろいろと困難な条件があることを話しだしました。プロデュース業が多忙なこと、スタンリー・クラークとはレコーディング以来なかなか会えないこと、コンサートの準備だけでも相当な時間と費用が必要なこと、そしてそもそも、その時はライブをやる意志があまりないことなどを丁寧に説明したのです。その内容自体がインタビューとしてはたいへん貴重なものとなりましたが、私は最後にあらためてコンサートの実現に向けて日本で動くということと私自身を含めて日本のファンがそれを熱望していると伝えました。優しい人柄の彼の返事は「そうなったらいいねぇ」ということでしたが、それは、その時点ではあくまで社交辞令だったに違いありません。ただ、そのインタビュー全体の印象から感じられたことは、
 1.アルバム「ドリーム・オン」とシングル「シャイン・オン」の日本でのヒットをとても喜んでいること
 2.日本の新しいファンにもっと自分をアピールしたいという気持ちが強くあること
 3.日本がジャズ系のミュージシャンにとって良い市場であると思っていること などです。
 私は別の仕事でロス・アンゼルスへ行く機会を探っていました。このジョージ・デュークのコンサート企画のためだけに米国へ出張することなどは認められませんでしたので、なんらかの大義名分が必要でした。そんな頃、あのマイケル・ジャクソンのマネジメントから新しいプロジェクトの情報が入って来たのです。マイケルについてはメディア向けのニュースが不足してプロモーションが滞っていた時期で、この情報はとても貴重な重要情報でした。ロスへ出かけるためのまたとない条件が整ったのです。この機会に……。そしてうまく理由をつけて滞在期間と訪問先をセッティングし、ジョージ・デュークを訪ねる手はずが整いました。

17(第一部)

 私の職歴の中で特に印象深い出会い、幸運にも洋楽業界での15年余りのキャリアの間に世界的なアーティストやミュージシャンと直接に知り合い、仕事上での付き合いとは言え親しく交流する事が出来た事については、現在の私自身にとっても大きな経験となっています。前回は今や伝説的なグループと言われる「アース・ウインド・アンド・ファイア」のリーダー、モーリス・ホワイトのお話を書きましたが、今回はその中でも触れていたキーボード・プレイヤー/プロデューサーのジョージ・デュークについて書こうと思います。一般の方にはあまり馴染みのないアーテイストだと思いますので、まずはプロフィールから御紹介しましょう。

 ジョージ・デューク/George Dukeは、1946年生まれ、カリフォルニア州のサン・ラファエル出身のミュージシャンで、80年代に入ってからはポップ・アーティストのプロデューサーとしても活躍しているウェスト・コーストの才人の一人です。そもそもはジャズ・ピアニストですが、若い頃から先進的なプレイヤーとして活躍しており、特にフランク・ザッパ/Frank Zappaのグループでの活動は有名です。76年から米CBSとソロ・アーティストとして契約、EPICレーベルに所属して数々の作品を発表、80年に同じEPICに所属していたベーシスト、スタンリー・クラーク/Stanley Clarkeとのグループ、「クラーク/デューク・プロジェクト」を結成してユニークなブラック・コンテンポラリー作品を制作しました。

  私がジョージ・デュークを担当したのは3年弱のごく短い期間でしたが、84年に彼自身のバンドとして初の来日コンサートを実現するために、私が各方面に色々と働き掛けていた事を通じて本人とも急速に親しくなりました。その約2年前、「ドリーム・オン/Dream On」という最大のヒット・アルバムを出してポップな世界でも名が売れ出したのがきっかけでコンサートの話が出てきたのですが、シングル「シャイン・オン/Shine On」のヒット1曲だけではホール・コンサートのツアーはなかなか困難です。ジャズやフュージョンの世界ではそこそこ名の知られた存在でしたが、イメージが地味でマニアックなアーティストであり、本国のアメリカでもコンサート・アーティストとしてのキャリアはほとんどありませんでした。それまでにサイドのキーボード・プレイヤーとして2度の来日経験がありましたが、あくまでもマニア向けのステージばかりでポップ・アーティストとは程遠い存在です。その点では前回御紹介したモーリス・ホワイトと共通した背景がありました。

 ジャズからスタートして中年世代を迎えてからポップ・ミュージックへと転進して成功したブラック・アーティストはモーリス・ホワイト、クインシー・ジョーンズなど何例かありますが、クインシー・ジョーンズの場合はあくまでもプロデューサーとしてのイメージが強く、ステージアーティストとしても幅広く知られる存在になったのはモーリス・ホワイトだけといってもよいでしょう。ポップ・アーティストとしての条件の一つにはボーカルが出来る事とルックスという2大条件が必須ですが、とくにアメリカでプロのボーカリストとして認められるためには相当な実力と運がなければなりません。

 ましてプラック系の場合は大変に層が厚く競争も激しいためによほど傑出した条件が整わない限りはレコーディング・アーティストになることはおろか、プロとして活躍することですら本当に狭き門なのです。ジョージ・デュークはボーカリストとしては素人レベルでしたが、卓越した音楽性がありボーカルを楽器的に扱う事がとても上手な人でしたので、レコーディングの場合には立派に通用するボーカリストぶりを発揮しました。特にファルセット(裏声)がチャーミングで、あのごついルックスからは想像のつかないような甘い優しさがありました。ヒット曲の「シャイン・オン」はウエスト・コーストの優秀なバック・コーラスを起用しながら彼自身がリード・ボーカリストとして得意のファルセットを聞かせてくれます。このレコーディングの巧みさ、一緒に活動していたサウンド・エンジニアの素晴らしさもあってアルバム「ドリーム・オン」は録音の優秀さでも評判となり、オーディオ雑誌からも高い評価を得ました。
 とはいえステージでの実演となると話は別です。ポップ・アーティストとしての条件であるルックスに関しても、いわばオヤジ・ダンサーズのイメージですからモーリス・ホワイトほどの開き直った派手さもありません。「シャイン・オン」のイメージでポップでお洒落なスターを想像するようなダンス・ミュージック・ファンにはかなり厳しいと言わざるを得ません。コンサートの告知用ポスターのデザインや雑誌の記事、広告などの「見せる」イメージについてはスタッフもかなり悲観的な感想が多かったと記憶しています。

 コンサート・ビジネスは基本的にはレコード会社の仕事ではありませんが、アーティストやレコードのプロモーションにとっては大変に重要な意味を持っています。一般的にコンサートはアーティストにとっての収入源の一つと思われていますが、実際は莫大な収益を得られる例はごく少なく、アーティストのマネジメント会社にとっては両刃の剣とも言えるものなのです。実演で評判を落としたアーティストも数多くありますし、外タレの場合はとくにそのリスクが大きいと言われます。一方で発展途上の実力者やイメージが固まり始めたアーティストにとっては評価を上げる絶好の機会とも言えますし、コンサートの素晴らしさが評判になれば2度、3度とツアーを継続する事ができるようになります。ジョージ・デュークのような本格派のアーティストの場合は実演の素晴らしさが伝わる事でレコードの売上がハッキリと変化します。

 優れた音楽性を持った素晴らしいキャラクターのジョージ・デューク、人格者で特にミュージシャン仲間から絶大な信頼を得ている彼の実質的に初めてのメインアクト・コンサートを実現したい、私はそんな思いに駆られてレコード会社の一担当者の枠を越えた動きを取りました。次回その後の感動的な出会いを含めてお話を続けたいと思います。