2011/11/01

21(第一部)

 80年代の半ば頃、洋楽ポップスの世界では多くのイギリスのアーティストが世界的にブレイクしました。ワム! (ジョージ・マイケル)、カルチャークラブ、シンプリーレッド、ABC、ハワード・ジョーンズ、ユーリズミックス・・・。個性的で魅力的なアーティストがどんどん登場して、アメリカや日本でもヒットを飛ばし、アメリカのマスメディアでは"British Invasion"といわれるぐらいに多数のイギリス出身のアーティストがチャートの上位を占めていました。

 70年代の後半、イギリスでは不景気による社会不安と失業問題が深刻で、ポップスの世界でもパンク&ニューウェイブのアーティストが登場して政治的、メッセージ的な新しいロックミュージックの表現を模索する動きが活発になりました。それは、アメリカの60年代のベトナム反戦を契機として生まれたサイケデリック・ロックやフラワームーブメントなどと共通した背景を持っており、音楽のメッセージ性と社会性を通して新しい表現文化が生まれ始める契機となりました。パンク・ロックの破壊性と過激性は、60年代アメリカン・ロックのドラッグとの結びつきとは違って、暴力的なバイオレンスと結びついていったように思われます。

 このパンクをきっかけとして新しいロック表現がポップスにも大きな影響を与え、特にサウンドやリズムのアイディアとして第3世界の音楽、とりわけジャマイカやプエルトリコの民族音楽との融合によって、後にレゲエの世界的な大ブームが起こります。70年代のブリティッシュ・パンクのトップ・アーティストといわれるセックス・ピストルズ、クラッシュ、ストラングラーズ等は多くのレゲエ・ナンバーを作っており、ボブ・マーレーを筆頭とする第3世界のミュージシャンとの密接な関係もよく知られています。

 80年代の半ばになるとイギリスは徐々に経済も回復し、音楽業界もパンクやニューウェイブの刺激を受けた新しいアーティストの台頭によって世界的なスターを登場させました。私の場合はCBS/UKのアーティスト、特にワム!とシャーデーは今でも忘れられないアーティストです。

  この2組のアーティストには重要な共通項があります。ポーカリストで主役の二人、ジョージ・マイケルとシャーデーが共にアメリカの60-70年代の黒人音楽に強い影響を受けていることです。ジョージ・マイケルはモータウンやフィラデルフィア・ソウルのソフトな感覚を身に付けていて、一方シャーデーはブルックリン・サウンドやアトランティツク・ソウルの影響を受けています。また共にミュージシャンや音楽好きの家系の育ちであり、子供時代からアダルトなアメリカ音楽に接して来たことから、二人とも年令の割にセクシーでソフィストケートされた歌い方を身に付けていました。二人のデビューの仕方は全く正反対で、それぞれはアイドルとジャズ系グループというイメージで登場しましたが、実は多くの点で共通するセンスがあったのです。

 私はシャーデーの担当となったのですが、実はイギリスでのデビュー当時から特に注目していたと言う訳ではありませんでした。私の担当ジャンルは基本的にはアメリカの黒人音楽であったためにイギリスのアーティストには余り注意を払っていなかったのです。CBS/UKのリストの中にも何人かの才能ある黒人アーティスト(エディ・グラント、ビリー・オーシャンなど)がおり、彼等も私の担当ではあったのですが、シャーデーのデビューにはほとんど気が付かない状態でした。ナイジェリアの出身であることや彼女を取り巻くバンドのメンバー達がいずれもイギリスのスタジオ・ミュージシャンとしてハイレベルの実力を持っていたことなど、バイオグラフィーに記されていたことを実感したのは、デビューから半年以上も経ってからの事でした。

 シャーデーは83年の秋に"Yuor Love Is King"というシングルでデビュー、このミディアムスローのラプソングは全英チャートをじわじわと上がってついにベストテン入りします。CBS/UKはプライオリティ・アーティストとしてのキャンペーンを開始、84年の初めから全英クラブツアーをスタートさせました。そして、同じ頃にロンドンに在住する一人の日本人カメラマンから手紙をもらったのです。彼はブリティッシュ・ロックをこよなく愛し、日本にイギリスのアーティストたちを多数紹介してきたユニークなカメラマンで、日本のロック雑誌や音楽メディアなどにしばしば彼の写真やコンサート・レポート等を発表していました。

 その彼がシャーデーにいち早く注目して、日本でも必ずブレイクすると確信して私達に手紙をくれたのです。彼はシャーデーのツアーに自主的に同行して、ライブやオフの写真を撮り続けていました。その写真はとても印象的で、個性豊かなシャーデーの魅力、グループ全体のオシャレでスマートなイメージを見事に捉えたものでした。この彼の手紙をきっかけとして、私は初めてシャーデーの存在をはっきりと認識したのです。私は彼の勧めに応じて、早速CBS/UKを通じてシャーデーのライブを観に行くことにしました。

 ツアーの予定地とCBS/UKのあるロンドン、またそのカメラマン、トシ矢島氏のスケジュール等を調整して、私は84年3月にロンドンを経由してエジンバラへ赴きました。まだ雪が残る市街、第2次大戦の戦火を免れた建物がイギリスの古い街の佇まいを漂わせているエジンバラのダウンタウンの煤けたようなビルの地下にあるクラブハウスで、シャーデーのライブは午後9時頃に始まりました。レコードのリリースはデビュー・シングル1枚にも関わらず、既に相当の知名度があったのか、ライブは最初から熱狂的な雰囲気の中でスタート、私はその反響に驚くと同時に、自分の認識不足と世界の広さ、凄さを改めて思い知らされました。私はそのコンサートの事前にアルバムのデモテープで3曲を聞いていましたが、実際のステージでは15曲余りが演奏され、全体的に私の先入観よりもずっとホットでエネルギッシュな内容でした。クールでスタイリッシュ、そしてアンニュイなシャーデーの雰囲気とアーバン・ジャズ・コンテンポラリーのサウンド、というオシャレなグループ・イメージが現在でも"SADE"の一般的な捉えられ方でしょうが、この時のライブでのプレイぶりはメンバー全体の若々しさが前面に出ていて、とても気持ちの良い"ノリ"に溢れていました。

  ライブの終了後に矢島氏にメンバーを紹介され、初めてシャーデー本人と面会しましたが、その晩は初対面ということもあって彼女はほとんど何も話しませんでした。代わりにバンドのメンバー達が私に次々に日本の事を質問をし、矢島氏を通じてかなり色々な情報が伝わっていることを実感しました。矢島氏のような存在が日本への海外の新しいアーティストの発掘や紹介に大きな影響力をもっていること、また彼のように日本を離れて現地での厳しい競争の中でカメラマンとして欧米のトップクラスのアーティストと日常的に接触しアーティストの信頼を得て活動を続けることの凄さを見せつけられました。やがて矢島氏は"SADE"の専属オフィシャル・フォトグラファーとして認められ、アルバムのジャケットをはじめとしてメイン・ビジュアルのほとんどを手掛けることになりますが、世界的なスターとして育ってゆく過程を共に歩んでゆく立場として大きな喜びと責任を感じただろうと思います。

 現在では欧米で活躍する日本人の数はあらゆる分野で飛躍的に多くなってきましたが、自分の感性と技術だけを武器として活動するクリエーターとしての生き方は日本の国内だけであっても大変な努力と情熱、そして才能が必要です。さらに「運」や「ツキ」もなければとても成功は出来ないでしょう。まして欧米の業界には世界中から有能な人々が集まっています。矢島氏とシャーデーの関係はカメラマンとミュージシャンのお互いの感性がマッチし、双方にとってクリエイティブな刺激を得られる理想的な組み合わせが実現されていたようでした。私は矢島氏を通して改めて日本と欧米のショービジネスのあり方の違いやクリエーターの生き様の凄さ、素晴らしさを知りました。

0 件のコメント:

コメントを投稿