2011/11/01

12(第二部)

 私と私の師匠の一人であった堤光生(ツツミ・テルオ)氏とソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)の「マルチメディア本部」を立ち上げて、本格的にゲームソフトの制作・販売に乗り出したのは1995年のことでした。当初は「プレイステーション」の発売前であり、PC、SEGA/Mega-Drive、NEC/CD-Rom2などのプラットフォームを対象にいくつかのタイトルを開発しましたが、いずれも純粋なゲームソフトというよりはSME所属アーティストの「企画物」が主でした。これらのソフトの販売を担当する営業部隊もなかったため、私と田中延尚(現So-net広告宣伝担当マネージャー)さんの二人で全国のゲーム卸店等を回ってセールスしました。なかなかまともに取り合ってくれない場面が多かったのですが、やはり既に「プレイステーション」発売の情報が行き渡っていたため、「ソニー」を名乗れば門前払いを喰うことはありませんでした。

 このセールス活動の中で分かったことは、ゲームソフトの流通が実にいい加減で古い体質のものであったか、ということでした。いわゆる任天堂の「ファミコン」と「スーファミ」によって築かれた業界だけに、基本的にはオモチャ業界の流通であり、それに「ヨドバシカメラ」や「T-Zone」などの量販店が加わった流通体制でした。ソフトは基板を用いたカセット式で、ロードスピートの速さはCDに勝っていましたが、大量生産には向いていなかったため、いつも過剰な在庫か長期間の品切れという両極端のリスクをはらんだビジネスでした。しかもソフトの製造はすべて任天堂による一括受注生産であったため、ゲームメーカーは生産量や在庫コントロールの自由がなく、機動的な体制をとることは全く出来ないまま、終始任天堂のペースに合わさざるを得なかったのです。フォーマット・ライセンサーとしてのメリットを最大限に利用し、しかもリスクなしのこのビジネスモデルで任天堂は利益を貪りました。そして、「初心会」と呼ばれた任天堂支配下のゲーム卸店は、この任天堂のモデルを支え、在庫のバッファ機能と価格コントロールの機能を握って、小売店に対し「抱合せ販売」などの違法行為を繰り返していました。

 ソニーは任天堂のこうした流通体制を参考に、フォーマット・ライセンサーとしての手法を踏襲しながら、いわゆる「卸店」を排除して小売店との「直接契約」による流通体制を敷きました。CDをメデイアとして製造のリードタイムを短縮し、少ない追加注文にも1週間程度で対応する生産体制を目指しました。ゲームメーカーがプレイステーションに「乗った」もう一つの大きな条件がこの生産と流通の方法だったのです。ゲームメーカーは「卸店」の思惑注文に惑わされることがなくなり、大量の在庫や長期間の品切れから開放されるようになりました。また、営業部隊をもたず開発に専念するソフト・メーカーを育てるため、小売店との直接営業を行うセールス部隊を用意して販売を一本化、生産から流通、販売、物流に到る完全一貫体制によるマーケティングを実現して、新しいソフト・メーカーの参入を促しました。その結果、プレイステーション用のゲームを開発するライセンシーであるゲームソフト・メーカーは国内だけでおよそ一年足らずで300社以上に達し、大量のソフトが供給されるようになりました。

 SMEのマルチメディア本部もこの300社の中の一社として「プレステ」向けゲームソフトの開発に着手することになりました。ゲームソフトの開発費は大半が人件費です。ゲームの内容にもよりますが、平均的なソフトの制作では、10名程度のスタッフが1年を費やして一つのタイトルを完成させます。一人当りの人件費を年間で約500万円としておよそ5,000万円かかる計算です。その他に機材費や作業場所代、CD製造費、宣伝費などを加えると1タイトルの発売までに約1億円の費用が必要です。ソフトの定価を3,800円とするとゲーム会社の収入はその約50%=1,900円ですから50,000枚を販売してやっと「元」が取れることになります。50,000枚の「損益分岐点」が高いか、低いか、現在の市場ではかなり高いハードルになっていますが、当時のブームの中では余程の「クソゲー」でなければクリアできる数字でした。実際、我々が手がけたタイトルもスタートの当初は順調に売れて、そこそこの利益を生んでくれましたが、一方で有能な制作会社がこぞって自立する方向になったために制作を委託するところがどんどん少なくなって、制作費や制作期間も条件がどんどん厳しくなっていきました。結局、プロデューサーの中心であった須藤朗(現So-netモバイルコンテンツ・マネージャー)さんは自前の制作チームを編成して大作を手がけることを決断し、無名ながら有能なスタッフを集めて、「プレステ」史上でいまだに語り継がれている超大作、フル3DムービーのシミュレーションRPG「クーロンズ・ゲート」の制作に乗り出しました。総制作費約5億円の大プロジェクトは周囲の注目を集め、企画段階から大きな期待をかけられましたが、その技術的なハードルは高く、完成までに約3年の歳月をかけることになりました。その間のスタッフの情熱や努力は計り知れないほどのレベルであり、連日の徹夜作業や議論など、未知の分野で日夜格闘する姿は今でも私の眼にありありと焼き付いています。体力と知力の限界に挑戦する若者たちの究極のチームは、彼等自身にとっても、もう二度と経験することが出来ない貴重な体験だったと思います。ゲームソフト・ビジネスの領域を越えて彼らは現在、それぞれの道を歩んでいますが、そのチームの記憶は消えることはないでしょう。「クーロンズ・ゲート」での経験を糧に、その後須藤プロデューサーは「プレステ2」のゲームソフト「天誅」で世界的なヒットを生み出します。

 国内以上にアメリカで成功したこのソフトで、また新たな制作チームが誕生し、彼らはアメリカを代表するゲーム・メーカー「アクレイム」社の委託を受けて独立を果たしました。「クーロンズ・ゲート」の発売後に私はSMEを離れて新たな道を模索することになりましたが、あの時の興奮と感動は決して忘れることの出来ない経験でした。と同時に、この文の中でご紹介した田中さんと須藤さんの二人の存在は私にとって、確実に次の時代が来ている事を実感させられた経験でもありました。私自身のステップアップということを強く意識するようになったのです。

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