2011/11/01

15(第一部)

 ノーランズのヒットを決定付けた当時としては画期的なプロモーション手法、それは衛星ライブによる海外からのテレビ生出演でした。フジテレビの人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」にイギリスから衛星生中継で出演するなどということは、国内の超大物アーティストのケース以外には考えられない方法であり、放送局にとっても我々にとっても費用、生中継の技術的リスクを考えるとかなり覚悟のいる方法でした。結果として、プロモーションの仕上げとなるようなテレビ露出のタイミングで、3ないし4回はこの衛星生中継を行ったと思います。特に印象に残っているのは、1981年のクリスマスの生中継、ロンドンのトラファルガー広場からの実況ライブは通行人が多数取り巻くなか、雪のロンドンのクリスマスの雰囲気を伝えながら、毛皮のコートを着たノーランズの4人が生放送で歌っている姿は、日本のお茶の間に強烈なインパクトを与え、放送の翌日からレコード店にお客様が殺到、全国的に品切れ続出という状況を作り出しました。

 もう一つの新手法が「プロモーション来日」です。それまで海外のトップスター中心のビジネスをしていた洋楽業界では、「コンサート来日」が最大のイベントであり、それがアーティストと生に接触することのできるほとんど唯一の方法でした。メディアの露出も「コンサートの中継」をベースに各種のインタビューや記者会見、写真撮影会など、すべてコンサートによる来日、を軸として展開されます。しかし、海外の大物スターは徐々にワールド・ツアーの一貫に日本を含めるようになってきてはいましたが、中堅以下となるとなかなかライブを見る機会がありませんでした。専門雑誌は海外に駐在員を置いたり、編集者が取材に出かけるなどしていましたが、コストもかかるためすべてをカバーすることはとてもできません。そこでレコード会社がプロモーションを仕掛ける手段としていたのが「海外への取材者派遣」です。有力な評論家や編集者、記者などに取材を依頼し、そうした人々の目を通してアーティストを紹介するという手法を取っていたのです。その手法に対して「プロモーション来日」は、逆にアーティストをプロモーションの目的のためだけに来日させる、というものです。但し、これは当然、日本でのプロモーションの必要性をアーティストが認めていることが前提ですし、大半は新人か売り出し中のアーティストということになります。

 ノーランズに先駆けて、イギリスCBSのポップグループ、ドゥーリーズのプロモーション来日を実施しました。このツアーは、今思い返せばアーティストにとっては本当に厳しい仕事だっただろうなぁ、と思います。午前10時頃から終日、東京と大阪でのテレビ・ラジオ局の出演、出版社の取材、そしてレコード店やディスコ訪問と目一杯のスケジュールで1週間を過ごすのが基本のパターンでしたが、馴れない土地で言葉の問題や食事の問題もあったでしょうし、なにより分刻みのスケジュールであっちこっちに連れ回されて、しかもいつもニコニコと愛想をふりまかなければなりません。ドゥーリーズにはもちろんイギリスから連れてきたマネージャーが付いていましたから、基本的にはアーティストはこのマネージャーの指示に従って動きます。ですからスケジュールや活動の内容などは事前のマネージャーとの打ち合わせによって決まりますが、実際の現場ではアーティストからマネージャーにさまざまな要求や苦情が出てきて、細かな変更が加わります。このドゥーリーズのマネージャーはアーティストとのつき合いも長く、プロとしての経験やノウハウもあって、厳しいスケジュールを上手にこなしていきました。また、グループは兄弟姉妹6人+2名という編成でしたので、長男のリーダーが全員をまとめていました。問題はノーランズです。4人姉妹のアイドル・グループでしたが、マネージャーはお父さん、その補佐役が次女のボーイフレンドというスタッフで、全体を完全に仕切る存在がいないために、女の子のワガママが随所に発揮されて、スケジュールはしばしば大幅な変更をさせられました。水着の写真を撮る企画や、現在なら「トゥナイト」のような番組への出演はほとんどボツでしたし、女の子らしさを強調するような取材にも難色を示すことが多く、アイドルとしての売り方のいくつかをあきらめなければならないようなことが、かなりありました。

  こうした苦労はありましたが、「プロモーション来日」は洋楽アーティストの認知を高める方法として大きな効果があり、新人の売り出し手法として定着していきました。また、日本市場の重要性が高まるとともに、米英のかなりの大物アーティストもプロモーションの目的だけのために来日するようなことも起こってきました。しかし、この方法もメディアの進歩、特にビデオの普及によって一気に廃れてしまいます。その最大のインパクトは、やはり(?)マイケル・ジャクソンによってなされました。1982年、「オフ・ザ・ウォール」に続く彼のEPICレーベル第2弾アルバム「スリラー」の登場です。この歴史的な大作の最大のヒット要因はなんといってもそのプロモーション・ビデオの素晴しさでしょう。第2弾シングルの「ピリージーン」のビデオがMTVを一気に世界的な人気テレビ局へと成長させる起爆剤となったのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿