2011/11/01

18(第一部)

 ジョージ・デューク/GeorgeDukeはジャズ・キーボードのプレイヤーとして若い頃からその才能を認められていましたが、一ピアニストという枠から完全に逸脱してマルチ・キーボード奏者、作曲家、アレンジャー、プロデューサーそしてついにはヴォーカルまで自らこなしてしまうマルチ・ミュージシャンへと成長していきます。その背景にはアメリカ音楽界の厳しい生存競争とビジネス・トレンドが関連していて、必ずしも実力だけでは生き残れない現実があります。とりわけブラック・アーティストの場合はどのような形であれプロとして「メシ」が食えるようになるだけでもたいへん高いハードルがあり、プロ・スポーツ選手の場合と同様に活躍できるフィールドもかなり限定されていて、その中での激しい競争が前提です。スポーツ選手の場合のケガのように実力以外の「運」の要素や家庭の経済力、人脈なども「才能」の開花のために重要な条件になることが多いために、才能がありながら世に認められずに消えていった人々も数えきれません。

 ジョージ・デュークはクラシック・ピアノの基礎の上でジャズからスタートしましたが、20代の頃はジャズ音楽界が大きく変貌し、クロスオーヴァー/フュージョンの全盛期へと入っていった時代で世代交代とともにロック&ポップスとの融合が進んでブラック・ミュージックそのものも激しく変化していた時代でした。アース・ウインド&ファイアーを筆頭とするプラック・ロックの動きやジョージ・クリントンを筆頭とするニュー・ファンクの登場、ハービー・ハンコックを中心としたニュー・ファンキー、ウェザーリポートなどのニュー・コンテンポラリー・ジャズの影響もあり、マンハッタン・トランスファーの成功やクール&ザ・ギャング、タワー・オブ・パワーなどの登場もこの時代です。ソウル界はダンス・オリエッテッドのポップ・ソウルがディスコの世界的な流行に後押しされて大衆化を果たして、ブラック層以外の全世界人種のポップスへと進化しました。ポップ・ソウルの2大レーベルだったモータウンとフィラデルフィア系のアーティストもディスコ・ブームに乗って世界的なスターを輩出してビジネスを成功させました。この時期のジヨージ・デュークは上に挙げたニュー・ファンクに近い分野で活動していてエキセントリックな音楽を展開していました。この頃の影響は80年代に入ってからも続いており、彼自身が考案した新楽器(ギター型のシンセサイザーでキーボードでありながらグリッサンド奏法ができるという画期的なもの、ギターのようにストラップを肩に掛けて演奏する)を使って、新しいサウンドを創り出すことにも積極的でした。

 彼のステージ活動は主にジャズ・クラブなどを中心としたもので、すでに60年代から始めていましたが、70年代の後半にジャズ界から離れてポップなR&B系のアーティストを目指してからは活動の中心はあくまでレコーディングでした。ミキシングとサウンドを重視するレコーディング・アーティスト/プロデューサーとしての活動が多くなると「音作り」に限界のあった当時のステージ・ライブはレコード・サウンドの再現という意味ではイメージダウンになることが多く、アース・ウインド&ファイアーのライブのように大掛かりなショーとしての演出を加えるなどしないと観客の印象度を上げることができません。これは当時のヒット・アーティストにとっては共通の課題で、レコード以外での収益を目指したいコンサートの開催がアーティストのその後にとって大きなリスクを伴うものになることはよく知られていました。ジョージ・デュークのような実力者にとってもそれは同じで、それだけレコーディングの技術が進歩し編集やミキシングによってサウンド・クォリティを上げることが可能になったために、レコーディングに凝れば凝るほどライブでの・再現が難しくなっていったのです。いわゆる「口パク」ライブで評判を落とした若手や新人のケースは論外としても、レコードでは極めつけに聞こえたギタリストの、ライブでのアドリブ・フレーズが「レコードと違う」ということだけで観客の不評を買うというケースもありました。

 80年の「ドリーム・オン」というアルバムとシングルカットされた「シャイン・オン」は日本でもディスコの定番曲になるほどのヒットを記録しましたが、ディスコで初めてジョージ・デュークを知った人がほとんどという状況ではコンサートの開催はまだ時期尚早というのが普通の判断です。実際のところ、国内のプロモーターからもコンサート来日の話は出てきませんでしたし、米本国でもライブの予定は全くありませんでした。当時のジョージ・デュークはプロデューサーとしての力量を買われてウェスト・コーストではトップ・クラスの評価を獲得し始めていて、その人柄や人脈もあってかなり忙しい日々を過ごしていました。彼の中にも自分自身のコンサート・ツアーという企画は100%なかったのです。CBS/EPIC系では実力派中堅女性ヴォーカリストのデニース・ウィリアムス、ワーナー系のシーウィンド、ジェームス・イングラムなどを手掛けており、いずれも前作を上回るセールスとなってプロデューサー業はますます盛況になっていました。

  私はEPICレーベルで、このジョージ・デュークと共にグループ活動をしていた大物ベーシストのスタンリー・クラークも担当していましたが、クラーク/デューク・プロジェクトというユニットの作品に心酔していました。ジャズ/クロスオーヴァーのテイストをうまく残しながらポップなサウンドを取り入れて、インストゥルメンタルのアドリブも2人の実力をきっちり聞かせてくれる充実した作品で、ライブでも十分以上に再現できると思っていたのです。このクラーク/デューク・プロジェクトの来日コンサートが実現すれば2人の実力者をあらためて日本の人々にアピールできるに違いないと考えていました。「シャイン・オン」のヒットはたいへんよいきっかけになり得ると思ったのです。つまり、私の個人的な「夢」として、クラーク/デューク・プロジェクトのライブを実現して、そのコンサートでスタンリー・クラークも参加したスペシャル・バージョンの「シャイン・オン」を聞いてみたいと思ったのです。

 ジョージ・デューク本人へのプロモーションを兼ねた国際電話インタビューの時に、私は自分のアイディアを話しました。彼はご機嫌取りのジョークと受け止めたらしく、軽く笑いながら「それはエキサイティングだ」と答えましたが、こちらが本気で実現したいことを言い始めると予想通りいろいろと困難な条件があることを話しだしました。プロデュース業が多忙なこと、スタンリー・クラークとはレコーディング以来なかなか会えないこと、コンサートの準備だけでも相当な時間と費用が必要なこと、そしてそもそも、その時はライブをやる意志があまりないことなどを丁寧に説明したのです。その内容自体がインタビューとしてはたいへん貴重なものとなりましたが、私は最後にあらためてコンサートの実現に向けて日本で動くということと私自身を含めて日本のファンがそれを熱望していると伝えました。優しい人柄の彼の返事は「そうなったらいいねぇ」ということでしたが、それは、その時点ではあくまで社交辞令だったに違いありません。ただ、そのインタビュー全体の印象から感じられたことは、
 1.アルバム「ドリーム・オン」とシングル「シャイン・オン」の日本でのヒットをとても喜んでいること
 2.日本の新しいファンにもっと自分をアピールしたいという気持ちが強くあること
 3.日本がジャズ系のミュージシャンにとって良い市場であると思っていること などです。
 私は別の仕事でロス・アンゼルスへ行く機会を探っていました。このジョージ・デュークのコンサート企画のためだけに米国へ出張することなどは認められませんでしたので、なんらかの大義名分が必要でした。そんな頃、あのマイケル・ジャクソンのマネジメントから新しいプロジェクトの情報が入って来たのです。マイケルについてはメディア向けのニュースが不足してプロモーションが滞っていた時期で、この情報はとても貴重な重要情報でした。ロスへ出かけるためのまたとない条件が整ったのです。この機会に……。そしてうまく理由をつけて滞在期間と訪問先をセッティングし、ジョージ・デュークを訪ねる手はずが整いました。

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