2011/11/01

22(第一部)

 1985年、シャーデー/SADEの鮮やかなアメリカ・デビューはシングル「スムース・オペレーター」のトップ10入りから始まりました。イースト・コーストからヒットし始めたこの曲は瞬く間に全米に飛び火して、あっという間にベスト5に入り、シングル・ヒットから間もないタイミングでアルバム「ダイヤモンド・ライフ」も発売されて、こちらもグングンとチャートをかけ上りました。イギリス本国や日本での大ヒットのニュースがアメリカのマスメディアの話題となっていたことが大きかったとはいえ、アメリカでのブレイクは予想をはるかに上回るスピードとスケールでした。ファースト・アルバムは米国で200万枚以上のセールスを記録してダブル・プラチナ・アルバムに認定され、シャーデーは一躍国際的なスターとして認知された訳です。

 このアメリカでの急激な成功はグループ、スタッフそして本人に大きな変化をもたらすことになりました。米CBSのマーケティング戦略がどのようなものであったかは今となっては定かではありませんが、結果としてその商業的な成功があまり長い期間は続かなかったことを見ると、どこかに無理な要素があったように思えてなりません。シャーデーは、セカンド・アルバム「プロミス」(1986年)では全世界で100万枚以上のセールスを記録しましたが、サード・アルバム「ストロンガー・ザン・プライド」(1987年)ではアルバムの高いクォリティの割にセールスは伸び悩みました。熱狂的な支持者がたくさんいたことは確かですが、ポップなヒット・アーティストというよりは純粋にスタイリッシュなヴォーカリストとしての道を歩み始めて、いわゆるポップ・スターのようなマスコミへのコマーシャルなアクセスを意識的に避けるようになったようです。

 こうした傾向は、実はアメリカ・デビューの直後に、というよりも既に日本でのキャンペーン来日の頃に、本人の言葉の端々から感じ取ることができました。マネージメントとレコード会社の考えは明らかに「ヒット志向」でした。実際に、彼らの音楽性やキャラクターは時代のニーズにマッチして、ビジネスとして世界的な成功に結びついたのですからアーティストに対するマネージメントとレコード会社の相対的な力関係は強まっていましたが、シャーデー本人としては、この成功を背景としたビジネス・サイドの強い意向に沿って今後の活動を続けることに対して少なからず反発があったのだと思います。

 さて、シャーデーは尊敬するアーティストとしていつもビル・ウィザース/Bill Withers の名を挙げていました。ビル・ウィザースは黒人男性シンガーとして80年代には既にベテランの域に達していた実力派です。彼のヴォーカルの魅力は一言で言えば「渋さ」ですが、落ち着いた雰囲気とジャズのセンスを併せもったソウル・シンガーとして、現在でも一線で活躍しています。80年代の初めにCBS レーベルから質の高いアルバムを何枚か出していましたが、その作品で彼はヴォーカリストとしてだけでなくソングライターとして、またプロデューサーとしてもトップクラスの実力を発揮していました。そして、そのビル・ウィザースやCBSレーベルのその他のブラック系アーティストを一手に担当していたのは、CBSカリフォルニアの敏腕プロデューサーで、かつては自らもミュージシャンとして活躍していたラーキン・アーノルド/Larkin Arnold です。

 私は一人のプロデューサーとして、シャーデーのアメリカでの成功の後の段階で、次の展開について色々と考えを巡らせていました。シャーデーの新しい境地をアーティスト的な面とビジネス的な面の両面でアピールし、さらに本格的なトップ・アーティストへと育てていくためには、それまでのCBS/UKとマネージメントのスタッフでは荷が重いのではないかと感じ始めていたのです。そこで思いついたのがラーキン・アーノルドのことでした。彼はシャーデーの担当ではありませんでしたが、ビル・ウィザースにとっては重要なアドバイザー的存在でしたので、私はシャーデーとビル・ウィザースの交流の可能性を探ろうと思ったのです。プロデュース、楽曲の提供、共演、ライブのゲスト、・・・、色々とこの二人のアーティストが直接、間接の関係を築くことが二人のどちらにとっても貴重なキャリアになると同時にコマーシャル的な効果ももたらすのではないかと考えたのです。

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