2011/11/01

20(第一部)

 今回は、前回まで2回に渡ってご紹介したジョージ・デュークとのエピソードの中にも登場した天才ベーシスト、スタンリー・クラークとのお話を書きたいと思います。

 スタンリー・クラーク/Stanley Clarkeは、70年代の前半にデビューしたベーシストの中でも飛び抜けた才能の持ち主で、チック・コリア、マイルス・デイビスらとのセッションで世界的に注目を集めました。驚異的なテクニックはもちろんですが、音楽性の豊かさ、高い作曲能力から生み出されるメロディアスなベースは、従来のリズム・プレイヤーとしてのベーシストの立場を根底から覆すほどの強いインパクトを与えました。彼のプレイの基本はベースと言う楽器をリード楽器の一つとして捉えている点で、過去のベーシストとは一線を画しています。それまでのジャズ・インプロビゼーション(ジャズの即興演奏)においてもベースの即興パートはもちろん存在していましたが、それはあくまでもリズム楽器としての位置付けでした。特にアコースティック・ベースの音域特性から、メインパートの立場はなかなか取りにくく、チャールズ・ミンガスやロン・カーターといったバンド・リーダーとしての才能を持ったベーシスト以外にはベースのリーダー・アルバムはほとんどありません。一方で、エレキ・ベースのジャズ・プレイヤーはフェンダー社製の素晴らしい楽器が登場するまではほとんど存在せず、ライブとレコーディングのどちらにも対応できる楽器としての表現力が確立する70年代の前半になって、ベテランのベーシストもやっとエレキ・ベースを使うようになりました。

 スタンリー・クラークはアコースティック・ベースのプレイヤーとしても素晴らしい技術と表現力をもっていますが、なんと言ってもエレキ・ベースの可能性を驚異的なテクニックで表現してみせた最初の人物であり、新しいジャズ/クロスオーバー・ミュージック/フュージョンの旗手として、チック・コリアのエレクトリック・ピアノとのコラボレーションで一世を風靡することになります。リターン・トゥ・フォーエバー/Return To Forever の衝撃的なデビューアルバムはジャズ・シーンに大きな転機を促した作品で、24才の天才ベーシスト、スタンリー・クラークを世界に知らしめた歴史的な作品です。
 
 私がこのアルバムを聞いたのは大学2年生の時で、神戸のシャズ喫茶でアルバイトをしている時でした。実はこのアルパム以前にスタンリー・クラークの存在は既に知っていました、アコースティック・ベースにエレクトリック・アダプターを取り付けたスタイルで一聴して今までとは違うスタイルであることが分かるプレイぶりで大変印象深かった思い出があります。でも、チック・コリアのこの新作は余りにも華やかで、斬新でした。グループとしてのサウンドの新しさに加えて、スタンリーの驚異的なテクニック、とくに高音域での目まぐるしい程のスピードに乗ったメロディアスなプレイは圧倒的なインバクトを持っていて、当時、お店のリクエスト・チャートのトップを数カ月間独占していました。

 私がEPICソニーに参加した時には、スタンリー・クラークはEPICレーベルの数少ないジャズ系アーティストの中で突出して有名な一人でした。実はEPICレーベルは、70年代の半ば頃、マイケル・ジャクソンとジャクソンズを筆頭として、そこそこの有名プラック・アーティストを抱えていましたが、ビジネスとしてはあまり成功していなかったのです。スタンリー・クラークも知名度の割には日米共にセールス的には大したことがなく、アーティストとしての実力は認められながらもレコード・セールスの面ではB級以下でした。でも私にとってはリターン・トゥ・フォーエバー以来の憧れのアーティストの一人であり、いずれ彼の担当者になるなどとは思ってもみなかったビッグな存在でした。

 78年、スタンリーは田園コロシアムで開かれたサマー・ジャズ・フェスティバルに出演するために来日しました。私は当時の担当者と共にそのコンサートを観に出かけ、楽屋で初めて彼と対面しました。身長190cm余りの引き締まった体躯、無精髭をはやして全身真っ白なステージ衣装で現れた彼の大きな手! 間近で見るスタンリーはやはり大物の風格を漂わせ、同行して来た奥さんはプロンドの白人女性で、それにも驚きましたが、人柄はどこかシャイで人なつこさを持っていて大変に好印象でした。その時はほんの一言二言の挨拶を交わした程度でしたが、その後、私が直接の担当者になってからはジョージ・デューク同様かなり深い交流を持つようになりました。

 80年にロスを訪れた時に、私はスタンリーに連絡を取り近況を聞かせてもらおうと思い、CBSの担当者に面会を申し入れたところ、彼は私の事を覚えていて快く自宅を訪問するようにと言ってくれました。CBSの担当者が住所のメモを渡してくれて、私はタクシーを手配し一人で彼の自宅を訪ねたのですが、それはハリウッドのスターたちの豪邸の建ち並ぶビバリーヒルズのど真ん中でプール、バスケットコート、リハーサル・スタジオを備えた素晴らしい建物でした。
 私はリビングに通され、3人の子供達にも紹介されて、例のブロンドの奥さんも交えてのアフタヌーン・ティーに招待されていたのですが、私はそうしたイギリス的な習慣の事も全く知らず、まるで大統領に面会する日本の新聞社の駐在員のようにガチガチに緊張してしまっていたことを思い出します。

 その後、彼との個人的な交流は度重なり、年に一、二度は面会してジャズとクラシックの関係の事、音楽教育と教材ビジネスのこと、ジョージ・デュークとの新しいプロジェクトの事、その他にも沢山の事を話し合ったり、相談したりしました。彼はほぼ毎年のように来日し、コンサートばかりでなく、映画音楽の制作、日本の若手ミュージシャンとのセミナー・セッション、音楽教育用のビデオ制作、CM音楽の録音など精力的に活動しました。アメリカでの活動と共に日本を大変に愛しているミュージシャンなのです。

 彼との最もおかしなエピソードといえば「高麗人参騒動」でしょう。その頃、彼は東洋医学や漢方薬に凝っていて、来日の度に私に指圧や太極拳の手配を頼んで来たのですが、ある時「高麗人参」を大量に買いたいと言ったのです。「高麗人参」は日本でも高価ですが、アメリカでは入手自体が困難な上に大変に高価なもので、その貴重価値もあってスタンリーは"Magic Jinsen"と表現して私に購入の方法を尋ねたのです。仕事が終わって帰国までの1日オフの日、私は事前に下調べをして何軒かの漢方薬専門店に問い合わせて、二人で「高麗人参」を買いに出かけました。まず、門前仲町、ここには東京江東区の下町で有名な漢方薬屋があり、以前に私が住んでいた場所で馴染みがありました。そこに着くと同時にスタンリーは満面に笑みを浮かべて、まるで子供が玩具屋へ言った時のように半ば興奮状態で手当りしだい目に付くものについて質問を浴びせて来るのです。そして、お目当ての高麗人参はもちろんあったのですが、皆さんも御存じのように「高麗人参エキス」を抽出するために焼酎やアルコールに漬けた丸い大きな瓶詰めに目が行ったのです。店主も面白半分に、その酒を試飲させてくれるということになったのですが、実はスタンリーは大変に酒に弱いのです。私がそのことを店主に告げると店主はザラメを入れて彼に勧めました。普段でも彼は酒に弱いくせに勧められると断わらない性格で、この時もショットグラス一杯をを一気に流し込んでしまいました。御機嫌の彼はその瓶詰めの作り方を教えろとせがみ、焼酎も買いたいと言いだす始末。結局、最初のこの店で1時間半余りを過ごして在庫のすべてを買う事になりました。店主が驚いて計算すると、当時の金額でおよそ20万円余。ところが彼は現金を持っておらずクレジットカードで支払うつもりだったのです。その頃の漢方薬屋ではクレジットカードを扱っている所などあるはずもなく、結局私の名刺を置いて後から請求書を送ってもらうことになりました。この店を出る頃にホロ酔い状態のスタンリーは、つぎはどこだと私に尋ね、つぎの浅草のお店でもまた一杯御馳走になり、またまた在庫一掃10万円也。最後に京橋のお店でも10万円分を追加して、やっと満足したようで、「お前も東京も最高だ!」などと言って、今までに見せたこともないような笑顔を浮かべホテルへ御帰還です。

 ホテルでは奥さんが心配そうに待っていました。総額で40万円余り、それでも大した量はありません。彼は楽しそうに一部始終を奥さんに話して聞かせました。実は彼の奥さんはかなりの実業家で、当時アメリカ西海岸地域のルイ・ヴィトン製品の独占販売権を持っていて、ビバリーヒルズのお金持ち向けに手広く商売をしていたらしく、この「高麗人参」の支払の事を聞くとすぐさまその場で小切手を切って私に渡してくれました。

 とにかく私にとっては、スタンリー・クラーク夫妻は色々な面でびっくりさせられたことが多かった二人だと思います。

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