2011/11/01

23(第一部)

 シャーデーは、私が洋楽ディレクターとして担当したアーティストの中で私個人にとって最も大きな影響と結果をもたらしたアーティストでした。別の意味で、例えばマイケル・ジャクソンの場合のように、私に大きな影響と結果をもたらしたアーティスト達は他にもたくさんいましたが、シャーデーのケースは少し事情が違いました。既にシャーデーについては今回で3回にわたって書き続けていますが、私自身にとっては色々な意味で決して忘れることの出来ないアーティストなのです。

 シャーデーのアメリカでの成功とその時期に前後したアーティスト自身の変化については前回触れましたが、その延長として、私が日本の一担当者の枠を越えてアーティストのプロデュースに関与するような動きを試みたことは、洋楽ディレクターとしての限界と会社組織の硬直性、海外アーティストに対する日本の会社のコンプレックスをもろに表面化させる結果になりました。

 私は、CBS/カリフォルニアのラーキン・アーノルドという大物プロデューサーを訪ねました。彼は1986年当時38歳で、CBSのブラックミュージックカタログ充実のために招かれ、ロスアンゼルスで精力的な仕事をしていました。CBSはマイケル・ジャクソンとジャクソンズの大きな成功に刺激されて西海岸を中心としたブラックミュージックのアーティストの発掘に力を入れるためにラーキン・アーノルドに予算と権限を与えて、それまでのCBS契約アーティストの見直しや新人の発掘、他社からの移籍アーティストの獲得などを進めさせていました。結果として3年余の在任中に大きなヒットを出すことは出来ませんでしたが、彼の存在は当時のブラックミュージック界では極めて大きくなっていました。

 私は、その頃新作を発表した直後のビル・ウィザースがロスアンゼルスを中心にライブツアーを始めたことを知り、シャーデーの最も敬愛するビル・ウィザースを一目生で見ておきたいと思って会社にアメリカ出張の申請を出しました。そして同時にラーキン・アーノルドとのミーティングをセッティングしたのです。この出張申請は一筋縄ではいきませんでした。出張の目的とその効果を巡って、上司や管理部などからチェックが入り、結局トップの一言でやっとお許しが出るという始末でした。この時の上司とのやり取りの中で、日本の洋楽ディレクター、一担当者としての限界を感じたのですが、要は日本の一担当者がアーティストや本国CBSに対して何らかの提案や相談を持ちかけることすらすべきではないという考え方です。そこにはお金の計算も絡んできて、出張の経費とその効果、つまり、この出張が具体的にどれだけ会社の売上につながるのかといった議論になってゆくにつれて、私の気持ちは急激に冷めてゆきました。

 結果として、私はラーキン・アーノルドに面会し、また彼の取り計らいでビル・ウィザースのコンサートに2晩にわたって招待され、本人とマネージャーにも食事をしながら会うという機会に恵まれました。ラーキンは私の提案に真剣に耳を傾けて、しかし冷静に彼なりの判断を示してくれました。すなわち、こうしたアイディアはあくまでアーティスト同士の直感的なインスピレーションによるケースが多いこと、またプロデューサーの強い意向で実現させるにしても双方の利害に対する客観的な情報が必要なこと、そのプロジェクトの中心になる者は双方の利害に対するリスクをどれだけ取ることが出来るか、といった内容でした。またラーキン自身にその役割を演じるつもりがないかと尋ねたところ、彼はにこやかに微笑しながら、シャーデーには彼自身が全く興味がないと答え、ビル・ウィザースについては、プロデュースは全面的に本人に任せているので直接本人に聞いて欲しい、ということでした。私がビル・ウィザースと彼のマネージャーとの会食をすることになったのは、そうしたラーキンの判断と彼のセッティングによって実現したのです。

 私はこの時のラーキン・アーノルドの態度、判断、その後のアクションの全てに感銘を受けました。全てが明快で、的確で、かつとてもスピーディーであったからです。そして、彼の一言、「このアイディアは君の物なのだから君がやるべきことだ」と言われた時にはまさに眼からウロコの心境でした。

 ビル・ウィザースとの面会は感動的なものでしたが、残念ながら彼はシャーデーのことを全くと言ってよいほど知らなかったのです。私は、アルバムやカセット、パブリシティ・コピーなどの資料を持っていきましたが、彼のマネージャーが「スムース・オペレーター」を知っていた程度で、ほとんど彼女については知識も情報も関心も持っていませんでした。
 ある意味では、ビル・ウィザースはモーリス・ホワイト(第16回参照)とは正反対の人物で、どこか浮世離れした芸術家のイメージが感じられる人物でした。コマーシャリズムとは一線を画した姿勢、実はシャーデーが敬愛する部分もまさにその点だったのかもしれません。

 マネージャーからの質問はもっと現実的でした。彼は、シャーデーのコンサートやレコーディングに何らかの形で参加することをシャーデーから依頼されて来たのか、と私に尋ね、そして、その条件は?と聞いてきました。もちろん、その時は未だ私のアイディアの段階であり、シャーデー側から依頼されてきた訳でもない事を伝えましたが、彼の失望の様子はありありと分かりました。

 このロスへの出張は、私のビジネス・キャリアの中でもとても大きな経験とショックを受けたものでした。アメリカ流の仕事のやり方、とくに個人の役割についての認識の違い、常に可能性を前提とした議論を行う姿勢、仕事の進め方と結論までのスピードの早さ・・・。現在の私にとってもとても重要な、海外とのビジネスを行う上での貴重な経験を積んだエピソードです。

0 件のコメント:

コメントを投稿