2011/11/01

10(第二部)

 今回から3回にわたって、ゲームビジネスのお話を書こうと思います。私のキャリアにとっては大きくは4回目の業界変化の体験であり、デジタル時代への転換という大きな社会変化に伴って、激しく動いている企業や市場のビビッドな様子をドキュメントしながら、現在の私にとって最大の試練でもあった時期を振り返ってみます。

 32ビット型家庭用ゲーム機の登場は、16ビット型時代とは全く違う社会を生み出しました。ハードウェアの性能の面では、3Dグラフィックス表現の飛躍的な向上によってCGアニメーションが一般家庭レベルに普及したことが最大の特徴でしょう。また、Sonyの「プレイステーション」、SEGAの「サターン」、Panasonicの「REAL」、NECの「FX」の4機種がほぼ同時期に発売され、市場を大いに活性化させると共に激しい競争を展開しましたが、この4機種はいずれも「CD-ROM」をメディアとした点で、デシタル記録技術の第1期黄金時代を象徴しています。

 それまでゲーム業界世界最大のメーカーとして君臨してきた任天堂は、この部分では独自路線を貫きます。一時はSonyのデジタル技術との連携を模索していながら、共同開発プロジェクトの中断と独自路線への転換を選択した背景には、したたかな京都流商人感覚と長年「子供&玩具市場」をベースに培ってきた独特な市場把握の感覚があり、「娯楽」としてのゲームと「エンタテインメント」としてのゲームの違いとでも言うか、まさに独自の嗅覚を持っているように感じられます。のちに「Gameboy」によって「ポケモン」のメガヒットを飛ばしますが、山内社長の説く「ゲーム性」を最も端的に表した成功事例だと言えるでしょう。任天堂は、32ビットをジャンプして一気に64ビット型の、しかもカセット式ゲーム機「Nintendo64」を発売しますが、それは「32ビットゲーム機戦争」と言われた1995年のクリスマス商戦からおよそ1年後のことでした。こうした一貫した独自路線によって、今でも世界No.1ゲームメーカーとしての地位を保ち続けている事自体が驚異的であり、一企業として見た場合も財務、資産、事業性においてずば抜けた超優良企業だということができます。規模の比較はできませんが、今年で創業以来103年を数える老舗の現在の姿は、世界最高企業と呼ばれる米国GE社をも彷彿とさせる趣があります。

 一方、常に任天堂の後塵を拝していたとはいえ日本のゲームビジネスを世界に広げた新興ベンチャーの雄、SEGAはご承知のように現在一歩一歩自立再建の道を歩んでいますが、この10年間にSEGAの辿った道筋はまさに天国から地獄のような浮沈の連続でした。Sonyのゲーム業界への参入のきっかけを作ったのは他ならぬ任天堂でしたが、その直接かつ最大の影響を被ったのはSEGAでした。「プレステ」と「サターン」の戦いに集約した「32ビット戦争」は結論として「プレステ」の勝利に終わりましたが、その最大の勝因は市場へのアプローチの違いだったと思います。任天堂はSonyとの共同開発プロジェクトの進行の過程で、この基本的な「差」を察知して自らの進むべき路線を再確認したに違いありません。その結果、Sonyとの提携を破棄し32ビット型ゲーム機から一時的にせよ撤退して、CDの使用も意図的に避ける形で次なる機会をしたたかに待つ戦略を取ったのです。一方SEGAの側から見ると、既に16ビット型時代から培ってきたCDを使って3D表現を強化した32ビット機の導入は任天堂に先んずるためのかねてからのシナリオだったのですが、いざ蓋を開けてみると戦いの相手はいつのまにか任天堂ではなく、Sonyになっていた、という印象だったでしょう。

 この頃、私はSMEのニューメディア本部に所属し、従来の路線を大幅に転換してゲームソフト制作に乗り出していました。同じソニーグループとしてのメリットを追求しながらも一方でサードパーティのソフトハウスとしての立場を建前として、Panasonic/REAL対応の「3DO/OSソフトライセンス」や「SEGA/SATURNソフトライセンサー」の契約も結びながら市場動向を注視していました。また、同時にSonyの新しいPCハードのプロジェクト{後のVAIOグループ}との交流も続け、技術系人材の派遣なども受けていました。さらに、IBM、マイクロソフト、アスキー、シリコングラフィクス、Adobe、Apple、等の後のIT系有力企業とのアライアンスも続けていました。しかし、ニューメディアやマルチメディアの分野だけでエンタテーメント系ソフトウェア・ビジネスの採算性を求めるのはたいへんに困難で、その最大の障害はPCの価格であり、使い方の難しさであることは現在でも本質的には変わりありません。逆説的に言えば、それは家庭用ゲーム機の最大のメリットであり、手軽にデジタル時代の新しい娯楽を一般大衆に普及させるという目的にもっとも適したハードであったのです。

 ここで改めて「プレステ」が登場するまでのゲーム業界を見直してみると、任天堂とSEGAのスタンスの違いが浮き彫りになってきます。SEGAの基本的な考え方はマニア的なゲーム市場を一般大衆化することにありました。それは見方を変えるとゲームビジネスの市民権のようなものを求めていたとも考えられます。「ゲームセンターの楽しさを家庭で好きな時間に好きなだけ」というコピーはSEGAの大ヒットソフト「バーチャファイター」サターン版の頃のものですが、ここにSEGAの目指していた方向がはっきりと示されています。一方任天堂は、ゲームセンター用ソフトと家庭用{それもどちらかといえば小学生をコアターゲットに設定した}ソフトのマーケットは少し性格が違うことをよく理解していたことが窺えます。特に、後の「ポケモン」や当時のファミコン最大のヒット作「ドラクエ」と「FF」の2大RPGの存在がそれを裏付けています。結果として、Sonyの参入によってゲーム機は一気に家電製品として普及し、当時の一般流行商品となってしまったことで、SEGAの目指していた初期の目的は達成されたのですが、皮肉なことにその家電化のプロセスの中でSonyのブランド力とマーケティング力に圧倒される形で戦争はSEGAの敗北という形で終結してしまいました。今でもマニア的なゲーマーの間ではSEGAは根強い支持を受け続けています。また、ゲーム制作者の間ではハードウェアと開発用ソフトウェアの両面で「プレステ」よりも「サターン」を高く評価する人が少なくありません。「32ビットゲーム機戦争は世界の市場を変え、社会を変え、文化をも変えてしまいました。デジタル時代の扉を開き、人々の生活に大きな影響を与えながら、そのビジネスの飛躍的拡大の過程でSonyとSEGAの二つの企業が正反対の成果を得ることになったことは競争社会の凄まじさを象徴的に示す事実です。

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