2011/11/01

19(第一部)

 アメリカのキーポード奏者/プロデューサーであるジョージ・デュークのお話がだいぶ長くなってきました。というのも、それだけ私にとっては大切な人物であり、また貴重な経験をさせてくれた素晴しい人であるからです。

 彼の日本初(実は世界初)の単独コンサートツアーは、1984年の10月に東京、大阪、名古屋、札幌で計5回開かれました。メンバーはジョージ・デューク(リーダー/キーボード/ボーカル)、ポール・ジャクソンJr.(ギター)、ルイス・ジョンソン(ベース) 、スティーブ・フェローン(ドラムス)の4人の大物スター・プレイヤーに若手のギタリストとパーカッション、バックボーカルを加えた超豪華メンバーで、さしずめ「ジョージ・デューク・オールスターズ」ともいうべき編成のバンドでした。私は来日メンバーのリストが送られてきた時に思わず目を疑ってしまうほど驚いた記憶があります。さらに、来日スケジュールの最終的な詰めの段階で、それに輪をかけて驚くべき 連絡が入りました。2人のゲスト・ボーカリストを連れて行く、というのです。その2人とは、当時フィル・コリンズとの共演で全米 No.1のヒットを飛ばしていたアース・ウインド&ファイアーのフィリップ・ベイリーとジョージのプロデュースで新作を発表したばかりのデニース・ウィリアムスだったのです。

 さかのぼること1年前、コンサートの計画を話すためにロスへ飛んだ時に、私はジョ ージにいろいろな提案と自分の「夢」を語りました。その中でジョージのボーカルについての私の考えを率直に述べたのです。私はボーカリストとしてのジョージの力量の限界とコンサートの成功のためには看板になるボーカリストが必要であることを説きました。こうした意見を面と向かって言うことはスターに対してはたいへん失礼なことですが、私たちは彼にとって初めてのリーダー・コンサートの実現のために何時間も真剣に腹を割って話しあったのです。彼は最終的に私の意見を聞き入れて、ゲスト・ボー カリストを選定し日本に連れて来るように動いてくれたのです。そのゲストがなんとフィリップ・ベイリーとデニース・ウィリアムスという願ってもないビック・ネームであり、さらにフィリップの単独来日もデニースの来日もいずれも初めてのことで、ファンにとってはまさに「夢の共演」が実現したのです。

  私は彼のイメージ作りの基本を「新しい時代のヒット・プロデューサー」であると考えていました。その時代、日本では、まだプロデューサーの存在感は作品の評価にとってさほど大きなものとはなっていませんでした。今でこそ小室哲哉氏のようにプロデューサーが中心となってヒットが生まれることが、当たり前のこととして受け止められるようになってきましたが、当時は洋楽ファンのコアの人々や音楽評論家など一部の人だけが、作品に関する情報やデータが少ない中でプロデューサーのクレジットに注目していた程度でした。一般的には作品の評価はあくまでもパフォーマーによっていたのです。私は当時、プラック・ミュージック界でヒットを連発していたプロデューサーに注目し、音楽雑誌やFM番組などを通してプロデューサー特集を組む企画を進めていました。クインシー・ジョーンズ、プリンス、テリー・ルイス、ナイル・ロジャース、そしてジョージ・デュークなどのプロデュース作品を広く紹介するためです。私はEPICレコードの一ディレクターでしたが、レコード会社やレーベルの枠を越えてメディアにさまざまな企画提案を行うことでブラック・ミュージック市場の拡大と新しい音楽エンタテインメントの普及を目指していました。私にとっての目先のライバルは他社ではなく、ロック・ミュージック界だったのかもしれません。

 ジョージ・デュークの初のコンサート・ツアーは5回の公演とも素晴らしい出来で評判は上々でした。客の入りは大阪、札幌が事前告知の不足や認知度の低さが原因でやや低迷したため全体として85%程度とソールドアウトにはなりませんでしたが、東京公演は熱気に溢れ、NHKのライブ・レコーディングも入るなど、初のコンサートとしては立派な結果だったと思います。本人としては正直なところ満点ではなかったようですが、彼のプロ意識からみれば当然でしょう。彼としては臨時編成のメンバーであることと、そのいずれもが売れっ子のスタジオ・ミュージシャンでもあり、リハーサルの時間が少なかったのだ、と釈明していました。彼のレベルからみれば確かにその通りでしょうが、我々の目と耳には流石に一流のプレイヤー達であることが随所に感じられ十分に内容の豊かなコンサートであったと思います。特に私にとってはコンサートの発案から実現までの全体をプロデュースした最初の経験であり、しかもアメリカのトップクラスのアーティストをこれだけ揃えた豪華なメンバーでの単独ツアーという企画は日本ではそれまでほとんど例のないものでした。それだけに一応の成功を収められたことに本当に安堵し、またジョージの温かい協力にとても感動しました。そして、ツアーが終わり見送りのために成田空港に同行した時、ジョージは「感謝している。来年もまたやろう」と言って、あの大きな手で強く握手してくれました。帰宅の途上、この仕事をしていて本当に良かった、と改めて思いました。

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