2011/11/01

13(第一部)

 国内制作の事情に大きな変化が訪れていた時期、洋楽業界には別の大きなブームが起きていました。第3次ディスコブームです。前回もロッド・スチュワートとジョルジオ・モロダーの話に触れましたが、プロデューサー主導のブームを牽引したのは、プラック系では大御所クインシー・ジョーンズ、新進気鋭のナイル・ロジャース、ポップ・ロック系でジョルジオ・モロダー、そこにイギリスのニューウェイブ系バンドとユーロビートの走りとも言えるミュンヘン・サウンドが加わって世界的なブームとなったのです。ディスコの女王とよばれたドナ・サマーは黒人シンガーですがドイツ系の人で、ジョルジオ・モロダーの設立したカサブランカ・レコードのトップ・スターでした。

 こうしたヨーロッパを含む一大ムープメントが起こった背景には、世界のメジャー・レコード会社の再編成が大きく関係していて、新興のレコード会社の登場(あのヴァージンやアイランドなど)も国際的なレーベルの合従連衡を大きく刺激しました。ポップ・ミュージック・シーン全体にショー・ビジネスとしてのアメリカ的な方法論が持ち込まれ、特にロックのポップ化に対しては大きな批判が向けられた時代です。ロック評論家の渋谷陽一氏の「産業ロック論」が展開され、特にジャーニーを筆頭とするアメリカのニュープログレッシブ・バンド、フォリナー、ボストン、スーパートランプなどはそうした批判の矢面に立ったグループです。イギリスに起こったパンク・ムープメントも次第にニューウェイブロックとして形を変えてポップ化しました。ユーリズミックス、プリテンダーズあたりはまだ良しとして、ABC、A~Haとなると俄然ポップ色が強くなります。ソウル界の反応もこのディスコブームにはかなり批判的でした。第2次ブームの時もビージーズの「サタデー・ナイト・フィーバー」がその頂点で、ソウル・フリークにはたいへん評判が悪かったのですが、第3次では日本国内で大ヒットしたミュンヘン・サウンドに批判が集中しました。ドナ・サマー、ジンギスカン、ボニーM、アラベスクなどがその代表です。 

 ロック界やソウル界の音楽的観点からの批判はともかく、EPICソニーとしても洋楽の一大マーケットを形成しているディスコ系ポップスを無視することはできません。17cmシングル版が最も売れるジャンルであり、数十万のヒットが主にビクター系から連発していました。音楽的な質を問うアーティスト志向の洋楽が国内制作のマーケティングに利用され始めた時期に、皮肉にも洋楽ディスコの楽曲シングルヒットが連発するという奇妙な市場が生まれ、洋楽と国内制作の逆転現象のようなものが起こったのです。そんな状況下で、元々ダンス・ミュージックとブラック系を好んでいた私にディレクターをやれ、という辞令が出ました。ドイツのCBSが他社に出遅れ気味にリリースしたミュンヘン・サウンドのシングル版がきっかけでした。一見ドナ・サマー風の黒人女性ボーカルの歌う胡散臭いシングルが新宿のディスコでヒット、EPICソニー洋楽最大のヒット曲になって約5万枚を売ったのです、その曲名は「誘惑のラブキャット」。このシングルは、フレンチ・ポップスやイージー・リスニングなどのヨーロッパ音源を担当していたディレクターがドイツ産ということでリリースしたのですが、思いがけないヒットとなったために当時の宣伝を担当していた私に「今後はおまえがやれ」ということで決まったというわけです。

 私は株式会社EPICソニーの創設から10年間、ちょうど独立会社としてのEPICソニーが存在した期間に在籍し洋楽の宣伝、制作そして新規事業の開拓を担当しました。ディレクターとしては通算7年間、洋楽業界では王道のロック界に比較して日陰の存在だったディスコ&ブラック・ミュージック系を担当し、運良く多くのヒットに恵まれて常に日向を歩くことができました。その最大の「運」がマイケル・ジャクソンです。この天才との出会いは、私の人生観、ビジネス観のすべてを変えたと言っても良いと思います。そしていろいろな意味で私のトラウマにもなっているかもしれません。マイケル(以下、MJ)は、すでに私の担当以前にジャクソン・ファイブの一員としてモータウンでのヒットを出していましたし、1975年にEPICレーベルに移籍しジャクソンズと改名してから3枚のアルバムを発表していました。本国ではそこそこのヒットを記録し、3枚目の「Destiny」では8年ぶりのミリオンセラー・シングルも出していましたが、日本国内では天才少年シンガーとしてのイメージが相変わらず根強く「ベンのテーマ」を越えることはできませんでした。当時の私自身のジャクソンズに対するイメージと評価も必ずしも高いものではなかったのですが、EPICレーベル3作目の「Destiny」には新しいグループとして再出発を目指す意欲とMJのボーカリストとしての成長がはっきりと感じられて何か新しい展開の予感がしました。とは言ってもMJのソロ・アルバム、それもクインシー・ジョーンズとの作品が作られていることなど予想もしていなかったことで、突然のようにアメリカから送られて来たマスターテープとレーベルコピーといわれる収録内容を記した1枚の資料を見たときには思わず目を疑いました。 

 クインシー・ジョーンズはジャズのアレンジャー&コンポーザーとして50年代のオーケストラ作品から独自のポップな感覚を持っていて、私の大好きなアーティストの一人でした。70年代の後半に入ってからはプロデューサーとしてクインシー自身のレーベルを立ち上げて、よりポップな方向に歩み始めていました。チャカ・カーン&ルーファス、プラザーズ・ジョンソンなどの育成をはじめとして、それまでのフュージョンやクロスオーバー系ジャズにボーカルを加えてポップ化するという路線を示し、アース・ウィンド&ファイアーやハービー・ハンコック・グループ、チック・コリア・グループ、ザ・クルセーダーズなどと共に新しいブラック・ミュージックを作り出す中心人物となっていました。とは言え、モータウン系のアイドル・ポップ・ソウルと思われていたMJとの共演は全くの予想外で、特に日本ではかなり意外な組み合わせと捉えられたと思います。このMJとクインシーの最初の共演作品「オフ・ザ・ウォール」はアメリカで約半年間で400万枚を売る大ヒットとなりましたが、私は突然届いたマスターテープをスタジオで初めて聴いた時に歴史的な大作になると確信していました。 

 結果として2作目の「スリラー」がレコード史上最大の記録を作る大作となったのですが、私には1作目を初めて聴いた時点ですでにその予感がありました。今思い返して見ても、言葉にできない衝撃と感動を感じたのです。それは、私個人にとってはマイルス・デイビスの「イン・ヨーロッパ」、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」そしてフルトヴェングラーの「ルツェルンの第九」を初めて聴いた時と同様のショックです。こうした歴史的な作品の担当になるということはレコード・ディレクターとして最大の「幸運」であり「喜び」ですが、同時に一音楽ファンとしての個人の立場とビジネスマンとしての立場が微妙に交錯することでもあります。それはどこか切なく、やりきれない気持ちであり、説明のしにくい独特の感覚です。

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