2011/11/01

17(第一部)

 私の職歴の中で特に印象深い出会い、幸運にも洋楽業界での15年余りのキャリアの間に世界的なアーティストやミュージシャンと直接に知り合い、仕事上での付き合いとは言え親しく交流する事が出来た事については、現在の私自身にとっても大きな経験となっています。前回は今や伝説的なグループと言われる「アース・ウインド・アンド・ファイア」のリーダー、モーリス・ホワイトのお話を書きましたが、今回はその中でも触れていたキーボード・プレイヤー/プロデューサーのジョージ・デュークについて書こうと思います。一般の方にはあまり馴染みのないアーテイストだと思いますので、まずはプロフィールから御紹介しましょう。

 ジョージ・デューク/George Dukeは、1946年生まれ、カリフォルニア州のサン・ラファエル出身のミュージシャンで、80年代に入ってからはポップ・アーティストのプロデューサーとしても活躍しているウェスト・コーストの才人の一人です。そもそもはジャズ・ピアニストですが、若い頃から先進的なプレイヤーとして活躍しており、特にフランク・ザッパ/Frank Zappaのグループでの活動は有名です。76年から米CBSとソロ・アーティストとして契約、EPICレーベルに所属して数々の作品を発表、80年に同じEPICに所属していたベーシスト、スタンリー・クラーク/Stanley Clarkeとのグループ、「クラーク/デューク・プロジェクト」を結成してユニークなブラック・コンテンポラリー作品を制作しました。

  私がジョージ・デュークを担当したのは3年弱のごく短い期間でしたが、84年に彼自身のバンドとして初の来日コンサートを実現するために、私が各方面に色々と働き掛けていた事を通じて本人とも急速に親しくなりました。その約2年前、「ドリーム・オン/Dream On」という最大のヒット・アルバムを出してポップな世界でも名が売れ出したのがきっかけでコンサートの話が出てきたのですが、シングル「シャイン・オン/Shine On」のヒット1曲だけではホール・コンサートのツアーはなかなか困難です。ジャズやフュージョンの世界ではそこそこ名の知られた存在でしたが、イメージが地味でマニアックなアーティストであり、本国のアメリカでもコンサート・アーティストとしてのキャリアはほとんどありませんでした。それまでにサイドのキーボード・プレイヤーとして2度の来日経験がありましたが、あくまでもマニア向けのステージばかりでポップ・アーティストとは程遠い存在です。その点では前回御紹介したモーリス・ホワイトと共通した背景がありました。

 ジャズからスタートして中年世代を迎えてからポップ・ミュージックへと転進して成功したブラック・アーティストはモーリス・ホワイト、クインシー・ジョーンズなど何例かありますが、クインシー・ジョーンズの場合はあくまでもプロデューサーとしてのイメージが強く、ステージアーティストとしても幅広く知られる存在になったのはモーリス・ホワイトだけといってもよいでしょう。ポップ・アーティストとしての条件の一つにはボーカルが出来る事とルックスという2大条件が必須ですが、とくにアメリカでプロのボーカリストとして認められるためには相当な実力と運がなければなりません。

 ましてプラック系の場合は大変に層が厚く競争も激しいためによほど傑出した条件が整わない限りはレコーディング・アーティストになることはおろか、プロとして活躍することですら本当に狭き門なのです。ジョージ・デュークはボーカリストとしては素人レベルでしたが、卓越した音楽性がありボーカルを楽器的に扱う事がとても上手な人でしたので、レコーディングの場合には立派に通用するボーカリストぶりを発揮しました。特にファルセット(裏声)がチャーミングで、あのごついルックスからは想像のつかないような甘い優しさがありました。ヒット曲の「シャイン・オン」はウエスト・コーストの優秀なバック・コーラスを起用しながら彼自身がリード・ボーカリストとして得意のファルセットを聞かせてくれます。このレコーディングの巧みさ、一緒に活動していたサウンド・エンジニアの素晴らしさもあってアルバム「ドリーム・オン」は録音の優秀さでも評判となり、オーディオ雑誌からも高い評価を得ました。
 とはいえステージでの実演となると話は別です。ポップ・アーティストとしての条件であるルックスに関しても、いわばオヤジ・ダンサーズのイメージですからモーリス・ホワイトほどの開き直った派手さもありません。「シャイン・オン」のイメージでポップでお洒落なスターを想像するようなダンス・ミュージック・ファンにはかなり厳しいと言わざるを得ません。コンサートの告知用ポスターのデザインや雑誌の記事、広告などの「見せる」イメージについてはスタッフもかなり悲観的な感想が多かったと記憶しています。

 コンサート・ビジネスは基本的にはレコード会社の仕事ではありませんが、アーティストやレコードのプロモーションにとっては大変に重要な意味を持っています。一般的にコンサートはアーティストにとっての収入源の一つと思われていますが、実際は莫大な収益を得られる例はごく少なく、アーティストのマネジメント会社にとっては両刃の剣とも言えるものなのです。実演で評判を落としたアーティストも数多くありますし、外タレの場合はとくにそのリスクが大きいと言われます。一方で発展途上の実力者やイメージが固まり始めたアーティストにとっては評価を上げる絶好の機会とも言えますし、コンサートの素晴らしさが評判になれば2度、3度とツアーを継続する事ができるようになります。ジョージ・デュークのような本格派のアーティストの場合は実演の素晴らしさが伝わる事でレコードの売上がハッキリと変化します。

 優れた音楽性を持った素晴らしいキャラクターのジョージ・デューク、人格者で特にミュージシャン仲間から絶大な信頼を得ている彼の実質的に初めてのメインアクト・コンサートを実現したい、私はそんな思いに駆られてレコード会社の一担当者の枠を越えた動きを取りました。次回その後の感動的な出会いを含めてお話を続けたいと思います。

16(第一部)

 最近のCMにノーランズの「ダンシング・シスター」が使われているのを耳にしたりするとフッと18年前の映像が蘇ってきてノスタルジックな想いに襲われることがあります。現実の仕事としての現場はかなりタフな場面も多く、ここでは書き切れないようなこともありましたが、思い出として鮮明に記憶していることや蘇ってくるその頃の場面は楽しかったこと、嬉しかったことばかりです。その意味ではとても幸せであり、ラッキーな人生を送っているのかな、と思ったりもします。時代が良かったこともあるでしょうが、職場の周囲の人々や仕事を通して知り合った方々もとても素晴らしい人たちばかりだったことが本当に幸運だと改めて感じます。

  いろいろな出合いの中でも世界のトップ・ミュージシャンやそのスタッフたちと関わったことは現在の仕事の上でも計り知れない財産になっていると思います。現在の私のビジネス上で具体的に何がということはないのですが、海外の人々とのつき合い方や英語とその表現方法などを実践で学んだ効果は当然として、ビジネスの進め方、契約のあり方、さまざまな権利のこと、特にビジネスのダイナミズムについては国際舞台の一線で活動する人々の凄さとカッコ良さをたくさん見てきました。また、一度はトップの座につきながら後輩に追いこされたり、ライバルに破れたり、年齢的な限界に近づいていたり、一線での活躍から徐々に後退してゆく人々の姿もたくさん見てきました。厳しい競争社会での絶好調の時と不調の時、また世代交代が起こる時など、主に音楽業界の中で、それも特に人気商売としての激しい浮き沈みの実体を数々目撃する中で、私自身の人生をどのように生きるべきかについても多くのことを学んだような気がします。

 今回から数回に渡っては、そんな出合いの中で格別に強い思い出となっているいくつかのエピソードを御紹介しましょう。

 まずはアース・ウインド&ファイアー(EW&F)のモーリス・ホワイトのお話を書きたいと思います。既に最近では伝説上のアーティストのような扱われ方をしている記事を見かけることが多くなりましたが、プラック・ミュージックの世界では、特にアメリカと日本においては現在でも多くの尊敬を集めているアーティストの一人です。70年代の後半から80年代前半のEW&Fは、ヒットチャートの常連としてシングル、アルバムのヒットを連発し絶大な人気を誇るグループでした。他の多くのブラック・ミュージックのグループとは明らかに異なったスタイルとイメージをもっていてレコードやCDの購買層も違っているように思います。EW&Fのリーダーであるモーリス・ホワイトの名を初めて知ったのは60年代の終わり頃で、ジャズ・ピアニストのラムゼイ・ルイスのアルバムです。彼はジャズ・ドラマーとしてラムゼイ・ルイス・トリオの一員だったのですが、日本のジャズ・ファンの間ではラムゼイ・ルイス自身がさほど高い評価を受けていなかったためか、モーリスの名前も大して有名ではありませんでした。そのLPは神戸のシャズ喫茶で見たものでしたが、その後になって新宿の中古レコード店で偶然に見つけて、確か1500円程で買った憶えがあります。その頃には既にモーリスはブラック・ロックの旗手と言うようなイメージでEW&Fを結成し、レコード・デビューを果たしていましたが、私自身はその事実関係を知らず、同一人物であることも全く知りませんでした。EW&FがCBSレーベルに移籍して75年に「暗黒への挑戦」という名作を発表しそのタイトル・ナンバー"That's The Way Of The World"のカバー・バージョンをラムゼス・ルイスが同じCBSで新作のアルバムとして発表したことから、モーリス・ホワイトの事をようやく詳しく知ることになり、ワーナー時代の2作品やCBS移籍後の3枚のアルバムを入手したのです。

  その後、EW&Fはトップ・アーティストとして押しも押されもしない地位に上り詰めるのですがその絶好調時の81年、アルパム「天空の女神-RAISE!-」の制作中にロスアンゼルスで初めてモーリスに会ったのです。赤のコルベットのオープンにのって颯爽と現れたモーリスは、CBSのロスのオフィスに立ち寄ったところだったのですが、マイケル・ジャクソンのプロモーションの件で面会していたCBSの担当者が紹介してくれたのです。彼はグループのリーダーであると同時にリードボーカリストでありパーカッショニストであり、そしてアルバムのプロデューサーでもあったためにこの絶好調の時代は最重要VIPであったはずですが、特にセキュリティ・ガードが付いている訳でもなく、自分で車を運転しフラッと現れたという雰囲気で、受付嬢を含めてオフィスの人達とも実に気さくに話したりしていました。こうした気取らないトップ・アーティストの姿に驚いたこともあるのですが、私が日本での人気振りを説明した時の彼の態度、私に対する質問の内容、そしてその時にすぐに制作中のスタジオへ招待してくれた事の決断の早さ、前向きさとひたむきさ、にはたいへん驚きました。私の滞在スケジュールを聞くとすぐに電話でメンバーを集めて、スタジオワークのないメンバーやゲストミュージシャンとして参加している人達までも紹介してくれる手はずを取ってくれたのです。この初めての出会い以降もツアーの時、来日の時、そしてジョージ・デュークという私の担当アーティストのスタジオにも訪ねて来てくれたりと何度も会うことができました。
 その度に最初に出会った時と同様に、常に前向きで、真剣で、優しい人柄は変わりませんでした。

 私が音楽の仕事から離れて、またEW&Fの人気がやや下降してきてからは95年の来日の時にも残念ながら時間の都合で会うことはできませんでしたが、彼の人柄や態度は変わっていないと思います。常に前向きに、そして誠実に音楽のことを考えているに違いありません。少し古い97年の彼のインタビュー(英語)からもそうした姿勢が伝わってきますが、興味がお有りでしたら、300ページに及ぶ彼等のHPを訪ねてみて下さい。
http://www.homdrum.no/ewf/map.htmlまで。

15(第一部)

 ノーランズのヒットを決定付けた当時としては画期的なプロモーション手法、それは衛星ライブによる海外からのテレビ生出演でした。フジテレビの人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」にイギリスから衛星生中継で出演するなどということは、国内の超大物アーティストのケース以外には考えられない方法であり、放送局にとっても我々にとっても費用、生中継の技術的リスクを考えるとかなり覚悟のいる方法でした。結果として、プロモーションの仕上げとなるようなテレビ露出のタイミングで、3ないし4回はこの衛星生中継を行ったと思います。特に印象に残っているのは、1981年のクリスマスの生中継、ロンドンのトラファルガー広場からの実況ライブは通行人が多数取り巻くなか、雪のロンドンのクリスマスの雰囲気を伝えながら、毛皮のコートを着たノーランズの4人が生放送で歌っている姿は、日本のお茶の間に強烈なインパクトを与え、放送の翌日からレコード店にお客様が殺到、全国的に品切れ続出という状況を作り出しました。

 もう一つの新手法が「プロモーション来日」です。それまで海外のトップスター中心のビジネスをしていた洋楽業界では、「コンサート来日」が最大のイベントであり、それがアーティストと生に接触することのできるほとんど唯一の方法でした。メディアの露出も「コンサートの中継」をベースに各種のインタビューや記者会見、写真撮影会など、すべてコンサートによる来日、を軸として展開されます。しかし、海外の大物スターは徐々にワールド・ツアーの一貫に日本を含めるようになってきてはいましたが、中堅以下となるとなかなかライブを見る機会がありませんでした。専門雑誌は海外に駐在員を置いたり、編集者が取材に出かけるなどしていましたが、コストもかかるためすべてをカバーすることはとてもできません。そこでレコード会社がプロモーションを仕掛ける手段としていたのが「海外への取材者派遣」です。有力な評論家や編集者、記者などに取材を依頼し、そうした人々の目を通してアーティストを紹介するという手法を取っていたのです。その手法に対して「プロモーション来日」は、逆にアーティストをプロモーションの目的のためだけに来日させる、というものです。但し、これは当然、日本でのプロモーションの必要性をアーティストが認めていることが前提ですし、大半は新人か売り出し中のアーティストということになります。

 ノーランズに先駆けて、イギリスCBSのポップグループ、ドゥーリーズのプロモーション来日を実施しました。このツアーは、今思い返せばアーティストにとっては本当に厳しい仕事だっただろうなぁ、と思います。午前10時頃から終日、東京と大阪でのテレビ・ラジオ局の出演、出版社の取材、そしてレコード店やディスコ訪問と目一杯のスケジュールで1週間を過ごすのが基本のパターンでしたが、馴れない土地で言葉の問題や食事の問題もあったでしょうし、なにより分刻みのスケジュールであっちこっちに連れ回されて、しかもいつもニコニコと愛想をふりまかなければなりません。ドゥーリーズにはもちろんイギリスから連れてきたマネージャーが付いていましたから、基本的にはアーティストはこのマネージャーの指示に従って動きます。ですからスケジュールや活動の内容などは事前のマネージャーとの打ち合わせによって決まりますが、実際の現場ではアーティストからマネージャーにさまざまな要求や苦情が出てきて、細かな変更が加わります。このドゥーリーズのマネージャーはアーティストとのつき合いも長く、プロとしての経験やノウハウもあって、厳しいスケジュールを上手にこなしていきました。また、グループは兄弟姉妹6人+2名という編成でしたので、長男のリーダーが全員をまとめていました。問題はノーランズです。4人姉妹のアイドル・グループでしたが、マネージャーはお父さん、その補佐役が次女のボーイフレンドというスタッフで、全体を完全に仕切る存在がいないために、女の子のワガママが随所に発揮されて、スケジュールはしばしば大幅な変更をさせられました。水着の写真を撮る企画や、現在なら「トゥナイト」のような番組への出演はほとんどボツでしたし、女の子らしさを強調するような取材にも難色を示すことが多く、アイドルとしての売り方のいくつかをあきらめなければならないようなことが、かなりありました。

  こうした苦労はありましたが、「プロモーション来日」は洋楽アーティストの認知を高める方法として大きな効果があり、新人の売り出し手法として定着していきました。また、日本市場の重要性が高まるとともに、米英のかなりの大物アーティストもプロモーションの目的だけのために来日するようなことも起こってきました。しかし、この方法もメディアの進歩、特にビデオの普及によって一気に廃れてしまいます。その最大のインパクトは、やはり(?)マイケル・ジャクソンによってなされました。1982年、「オフ・ザ・ウォール」に続く彼のEPICレーベル第2弾アルバム「スリラー」の登場です。この歴史的な大作の最大のヒット要因はなんといってもそのプロモーション・ビデオの素晴しさでしょう。第2弾シングルの「ピリージーン」のビデオがMTVを一気に世界的な人気テレビ局へと成長させる起爆剤となったのです。

14(第一部)

 マイケル・ジャクソンのEPICレコード移籍後初のソロ・アルバム「オフ・ザ・ウォール」は世界的なヒット作品となりましたが、その後の「スリラー」に比べればまだまだ洋楽のヒットの域を出ていないものでした。衝撃的なファースト・シングル「今夜はドント・ストップ/Don't Stop 'til you get enough」はディスコで人気を博しましたがラジオのエアプレイはさほどでもなく、営業的にも大した成績にはなりませんでした。このアルバムの発売会議で当時の営業課長がつけた初回の目標数が3,000枚に過ぎなかったことが象徴しています。まだ駆け出しのディレクターであった私ではあっても、このアルバムのマスターテープを聴いた瞬間から歴史的な名作になる確信があり、発売会議では熱弁を奮ってプレゼンテーションを行いました。担当としての希望目標は初回20,000枚という、当時の洋楽としてはかなりの数字を掲げて臨んだ会議でしたがクールな営業課長の一言、「おまえが好きなだけだろぅ、売れねぇなあ、いいとこ3,000だ」であっさりとかわされてしまったことを覚えています。ただ私の心の中では「そんなものではすまないはずだ、きっと爆発する、させてみせる!」と密かに期するものがありました。

 そんな中、「今夜はドント・ストップ」はEPICソニー創設以来初の全米No.1シングルになり、アルバムもグングンとチャートを上昇、第2弾シングル「ロック・ウイズ・ユー」も
連続No.1になるなど、アメリカでのヒットはどんどん規模が大きくなっていきました。あれよあれよといううちにミリオンセラーとなり、国内でもアルバムの売り上げが日を追って伸びていったのです。ところがEPICソニーの洋楽部門は当時、洋楽のシングル・ヒットを目指して大々的なポップスキャンペーンを行っており、やはり私の担当アーティストであったイギリスのポップ・グループの売り込みに全てを賭けている状況だったのです。まず最初に「ウォンテッド」(ピンク・レディーとは別物)のディスコ・ヒットで売り出し中だったザ・ドゥーリーズ、そして「ダンシング・シスター」で全英チャートNo.1のヒットを出していた4人姉妹ノーランズ、この2つのポップス・グループのための強力なポップ・シングル・キャンペーンを展開していたのです。折りしもディスコ・ブームの中で女性コーラス系のグループに人気が集まり、 なかでもビクターのアラベスクは20万枚クラスのシングル・ヒットを連発していて、前回書いたようにミュンヘン・ディスコ・サウンドが大流行して久しぶりに洋楽にシングル・ヒットを数多くもたらしていました。

 こうした他社の動向に注目しながらも、ディスコと有線放送の露出だけに限られていた状況に問題提起する形でEPICソニーは特にAMの放送局に対してポップスの復権を訴えて回りました。イギリスの2つのグループを全面に出してのキャンペーンはミュンヘン・サウンドとは一線を画しながら、また当時の洋楽メディアの中心となっていたFM放送局に対してではなく、あくまでもAM放送局をターゲットの中心に置いてのプロモーションでした。このキャンペーンを企画した当時の私の上司は70年代にCBSソニーの花形ディレクターとして洋楽業界のトップを走っていた有名な人物で、78年の春に2年ぶりに本場アメリカのCBSレコード本社での特命業務を終えて帰国、そしてEPICソニーの洋楽部門に課長として配属されていたのです。この人物、堤光生氏(現、(株)SMEマネジメント取締役)は現在に至るまで私にとってはかけがいのない先輩であり、企画者として、またプロデューサーとして大師匠ともいうべき鬼才です。この堤課長の下、EPICソニー洋楽部門は次々と業界の話題をさらうユニークな戦略でヒットを連発します。このポップスキャンペーンはノーランズの名曲「ダンシング・シスター」を20数年ぶりのオリコンNo.1ヒット、100万枚セールスに仕立て上げ、イギリスの4人姉妹ノーランズはアイドルとしてラジオばかりではなく、テレビ、雑誌のメインを飾るスターに育ちました。「キャンディ・ポップス」という新語が生まれるほど洋楽から久しぶりの大衆的なヒットが作られたのです。ノーランズは80年の東京音楽祭に出場し、後にWINKのカバーでも知られる「セクシー・ミュージック」で見事にグランプリを獲得、名実共にトップ・スターの地位を確立しベスト・アルバムも50万枚を越えるヒットとなりました。

 堤氏のこのキャンペーンのアイディアのベースにはアメリカのレコード・マーケティングの基本手法が取り入れられていました。ラジオを中心としたTOP40の考え方です。ミュージック・テレビジョン=MTVが登場するまで、アメリカのポップスのヒットは全米にネットワークされたAMを中心とするラジオのエアプレイが起爆材となっていたのです。アルバム指向のFM局とヒット曲指向のAM局が音楽のジャンル別に多数存在するアメリカでは、日本のような  総合放送局ではなく音楽、ニュース、スポーツなど全てが専門局として運営されています。TOP40局という音楽専門ラジオ局はジャンルを問わずリクエストとレコード店の売り上げデータ中心の人気チャートをベースに選曲・放送し、いつでもヒットチャートをリアルタイムで24時間聴くことができます。各都市に存在するTOP40曲のチャートが基になって全米TOP40が集計され、『Billboard』誌の週間チャートが発表されるのです。堤氏は2年間のCBSでの経験の中でこうしたシステマティックなアメリカのマーケティング手法を学び、それをEPICソニーで実践しました。もちろんノーランズの魅力や「ダンシング・シスター」のヒット曲としてのポテンシャルなくしては成立しない話ですが、日本のポップス史に残る大きな成果を生んだ背景には、実はこうした、したたかな裏付けがあったのです。

13(第一部)

 国内制作の事情に大きな変化が訪れていた時期、洋楽業界には別の大きなブームが起きていました。第3次ディスコブームです。前回もロッド・スチュワートとジョルジオ・モロダーの話に触れましたが、プロデューサー主導のブームを牽引したのは、プラック系では大御所クインシー・ジョーンズ、新進気鋭のナイル・ロジャース、ポップ・ロック系でジョルジオ・モロダー、そこにイギリスのニューウェイブ系バンドとユーロビートの走りとも言えるミュンヘン・サウンドが加わって世界的なブームとなったのです。ディスコの女王とよばれたドナ・サマーは黒人シンガーですがドイツ系の人で、ジョルジオ・モロダーの設立したカサブランカ・レコードのトップ・スターでした。

 こうしたヨーロッパを含む一大ムープメントが起こった背景には、世界のメジャー・レコード会社の再編成が大きく関係していて、新興のレコード会社の登場(あのヴァージンやアイランドなど)も国際的なレーベルの合従連衡を大きく刺激しました。ポップ・ミュージック・シーン全体にショー・ビジネスとしてのアメリカ的な方法論が持ち込まれ、特にロックのポップ化に対しては大きな批判が向けられた時代です。ロック評論家の渋谷陽一氏の「産業ロック論」が展開され、特にジャーニーを筆頭とするアメリカのニュープログレッシブ・バンド、フォリナー、ボストン、スーパートランプなどはそうした批判の矢面に立ったグループです。イギリスに起こったパンク・ムープメントも次第にニューウェイブロックとして形を変えてポップ化しました。ユーリズミックス、プリテンダーズあたりはまだ良しとして、ABC、A~Haとなると俄然ポップ色が強くなります。ソウル界の反応もこのディスコブームにはかなり批判的でした。第2次ブームの時もビージーズの「サタデー・ナイト・フィーバー」がその頂点で、ソウル・フリークにはたいへん評判が悪かったのですが、第3次では日本国内で大ヒットしたミュンヘン・サウンドに批判が集中しました。ドナ・サマー、ジンギスカン、ボニーM、アラベスクなどがその代表です。 

 ロック界やソウル界の音楽的観点からの批判はともかく、EPICソニーとしても洋楽の一大マーケットを形成しているディスコ系ポップスを無視することはできません。17cmシングル版が最も売れるジャンルであり、数十万のヒットが主にビクター系から連発していました。音楽的な質を問うアーティスト志向の洋楽が国内制作のマーケティングに利用され始めた時期に、皮肉にも洋楽ディスコの楽曲シングルヒットが連発するという奇妙な市場が生まれ、洋楽と国内制作の逆転現象のようなものが起こったのです。そんな状況下で、元々ダンス・ミュージックとブラック系を好んでいた私にディレクターをやれ、という辞令が出ました。ドイツのCBSが他社に出遅れ気味にリリースしたミュンヘン・サウンドのシングル版がきっかけでした。一見ドナ・サマー風の黒人女性ボーカルの歌う胡散臭いシングルが新宿のディスコでヒット、EPICソニー洋楽最大のヒット曲になって約5万枚を売ったのです、その曲名は「誘惑のラブキャット」。このシングルは、フレンチ・ポップスやイージー・リスニングなどのヨーロッパ音源を担当していたディレクターがドイツ産ということでリリースしたのですが、思いがけないヒットとなったために当時の宣伝を担当していた私に「今後はおまえがやれ」ということで決まったというわけです。

 私は株式会社EPICソニーの創設から10年間、ちょうど独立会社としてのEPICソニーが存在した期間に在籍し洋楽の宣伝、制作そして新規事業の開拓を担当しました。ディレクターとしては通算7年間、洋楽業界では王道のロック界に比較して日陰の存在だったディスコ&ブラック・ミュージック系を担当し、運良く多くのヒットに恵まれて常に日向を歩くことができました。その最大の「運」がマイケル・ジャクソンです。この天才との出会いは、私の人生観、ビジネス観のすべてを変えたと言っても良いと思います。そしていろいろな意味で私のトラウマにもなっているかもしれません。マイケル(以下、MJ)は、すでに私の担当以前にジャクソン・ファイブの一員としてモータウンでのヒットを出していましたし、1975年にEPICレーベルに移籍しジャクソンズと改名してから3枚のアルバムを発表していました。本国ではそこそこのヒットを記録し、3枚目の「Destiny」では8年ぶりのミリオンセラー・シングルも出していましたが、日本国内では天才少年シンガーとしてのイメージが相変わらず根強く「ベンのテーマ」を越えることはできませんでした。当時の私自身のジャクソンズに対するイメージと評価も必ずしも高いものではなかったのですが、EPICレーベル3作目の「Destiny」には新しいグループとして再出発を目指す意欲とMJのボーカリストとしての成長がはっきりと感じられて何か新しい展開の予感がしました。とは言ってもMJのソロ・アルバム、それもクインシー・ジョーンズとの作品が作られていることなど予想もしていなかったことで、突然のようにアメリカから送られて来たマスターテープとレーベルコピーといわれる収録内容を記した1枚の資料を見たときには思わず目を疑いました。 

 クインシー・ジョーンズはジャズのアレンジャー&コンポーザーとして50年代のオーケストラ作品から独自のポップな感覚を持っていて、私の大好きなアーティストの一人でした。70年代の後半に入ってからはプロデューサーとしてクインシー自身のレーベルを立ち上げて、よりポップな方向に歩み始めていました。チャカ・カーン&ルーファス、プラザーズ・ジョンソンなどの育成をはじめとして、それまでのフュージョンやクロスオーバー系ジャズにボーカルを加えてポップ化するという路線を示し、アース・ウィンド&ファイアーやハービー・ハンコック・グループ、チック・コリア・グループ、ザ・クルセーダーズなどと共に新しいブラック・ミュージックを作り出す中心人物となっていました。とは言え、モータウン系のアイドル・ポップ・ソウルと思われていたMJとの共演は全くの予想外で、特に日本ではかなり意外な組み合わせと捉えられたと思います。このMJとクインシーの最初の共演作品「オフ・ザ・ウォール」はアメリカで約半年間で400万枚を売る大ヒットとなりましたが、私は突然届いたマスターテープをスタジオで初めて聴いた時に歴史的な大作になると確信していました。 

 結果として2作目の「スリラー」がレコード史上最大の記録を作る大作となったのですが、私には1作目を初めて聴いた時点ですでにその予感がありました。今思い返して見ても、言葉にできない衝撃と感動を感じたのです。それは、私個人にとってはマイルス・デイビスの「イン・ヨーロッパ」、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」そしてフルトヴェングラーの「ルツェルンの第九」を初めて聴いた時と同様のショックです。こうした歴史的な作品の担当になるということはレコード・ディレクターとして最大の「幸運」であり「喜び」ですが、同時に一音楽ファンとしての個人の立場とビジネスマンとしての立場が微妙に交錯することでもあります。それはどこか切なく、やりきれない気持ちであり、説明のしにくい独特の感覚です。

12(第一部)

 前回は1980年前後のEPICソニーと私の所属していた洋楽部門の話を書きましたが、このレコード会社は実は国内制作部門の活躍によって世間一般に知られるようになりました。後になって音楽業界での評価やレーベルとしての存在感も、洋楽よりもむしろ国内制作の活動が注目されて高まっていったと言うことができます。そこで今回は1980年前後の国内の音楽事情からお話しして、なぜEPICソニーが評価されたかを解説していこうと思います。

 EPICソニー設立の1978年はキャンディーズ解散の年でもありました。前回も触れたように音楽業界は社会の変化の中で大きな変革を必要とする時期に差しかかっていて、従来型の芸能界と新しい音楽勢力とのバランスが逆転して業界全体が新しい流れを模索し始めていた時代でした。当時のテレビ・ラジオには「歌謡〇〇〇」という番組タイトルが数多く存在しましたが、「歌謡曲」という表現は「流行歌」と いう言葉と同じく今や死語になっています。また、アーティストという表現は当時は洋楽部門の専用語でしたが、現在ではタレントとアーティストが使い分けられるようになって「歌手」という言い方は減ってきました。

 当時の音楽系テレビ番組の2大ヒット番組といえば「ザ・ベストテン」(TBS系)と「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)でしたが、この2つの番組が姿を消した背景には、テレビに出ないヒット・アーティストがたくさん登場し始めたことが挙げられます。現代でもZARDのようにレコードのヒットチャートの常連でありながらテレビには一切出演しないアーティストがいますが、当時はアーティストのポリシーというよりも芸能界と一線を画した勢力がマスメディア全体を目の敵にしていたという感じがありました。『明星』『平凡』という2大芸能月刊雑誌が廃刊になり、「アイドル性より音楽性」という考え方が全面に押し出されてきたことで「メディアよりライブ」という流れが始まっていました。いわゆるジャパン・ロックの台頭、バンド・ブームの始まりです。EPICソニーの国内制作は、こうした流れを先取りし完全にバンド指向のアーティスト育成をコンセプトにした最初のレーベルです。「シングルよりアルバム」=「曲 よりサウンド」……いずれもそれまでの洋楽のマーケティングに習った考え方で、ライブをベースとしてアーティストの音楽的なイメージ性を固めていく手法で新人を開拓、育成を進めていきました。

 これは私の持論ですがヒットソングとアルパムの関係は必ずしも一面的ではありません。シングルヒットによって有名になりその曲をフィーチャーしたアルバムを売る、という方法はポップスの常套手段で、あのビートルズも中期のアルバムまでは同様のやり方を踏襲していました。初めからアルバム指向のレコード作りを意識的に行う方法はジャズにおいては一般的で、その方法をポップスのアーティストが取り入れたのはフランク・シナトラが最初だと言われています。ロックのアーティストでアルバム指向でのレコード制作を意識的にやったのはザ・フーとテン・イヤーズ・アフターだと思われます。ビートルズも彼らと同じように60年代後期からはコンセプト・アルバムを制作するようになり、ローリング・ストーンズも70年代に入ってから本格的にアルバム・オリエンテッドな作品を発表するようになったわけで、その頃には既にイギリスを中心として多くのロックバンドが同様の手法で作品を制作しました。ポップスとロック、この一見対立する音楽ジャンルにアメリカではブラック・ミュージックのジャズとR&B、ダンス・ミュージックが加わって70年代のヒットチャートはどんどん多様化していきます。ヒットソングとアルバムの関係も多様化して、グループとソロ・アーティストの違いよりもプロデューサーの存在が大きくなり、70年代後半の洋楽のプロモーションではプロデューサーへの関心が相当強くなっていました。

 その意味では、現在でも国内の音楽シーンはアメリカの20年遅れで進んでいると言ってもよいと思います。TKがプロデューサーとして注目されている現代の日本、70年代後半のジョルジオ・モロダーとよく類似していますが、彼はTKのように自らメディアの前面に登場することはあまりありませんでしたので少しニュアンスは違いますが、そのプロデュース作品の多さとジャンルの多様性は驚くべきものでした。全世界に衝撃を与えた有名なヒット曲はロッド・スチュワートとの制作による「アイム・セクシー」 (1980年)でしょう。

 話をEPICソニーに戻しますが、この新しい国内制作の方法は他のレコード会社に大きな影響を与えました。本家のCBSソニーも松田聖子を最後にアイドル路線を転換し、グループ、バンド、シンガー&ソング・ライターの育成に力を入れ始めます。東芝EMI、ワーナーパイオニアも路線を転換、テレビ側も「イカ天」(TBS系)などの深夜番組で新しい流れに便乗し始めました。空前のバンド・ブームが起こったのです。

11(第一部)

 EPICソニーは常に業界に「話題」を提供することを一つの社風としていたような、斬新で若くて元気一杯のレコード会社でした。設立当初は邦楽(国内制作のこと)のアーティストがまだまだ育っていないことから売り上げの中心は洋楽でしたが、当時の米国、及び各国のEPICレーベルには有名ビッグアーティストも少なく、カタログも大してそろっていませんでした。洋楽自体がレコード市場全体の25%程度のシェアでしたから、国内のアーティストがヒットを出さない限りは先がない、というのが業界、社内の一致した見方でした。

 とは言え洋楽の担当としては国内アーティストが当たるまでは会社を支える重要な責任がありますし、少ないとはいえ本国ではそこそこの知名度のあるアーティストなどもいましたので、創業と同時に発売計画、売り上げ計画に基づいた一人前の洋楽部門として位置付けられ、またそこで働く社員もそういった意識で活動していました。前回のこの「楽歴書」で、第1回新譜のボストンのエピソードを書きましたが、実は同じ第1回新譜で発売されたチープトリックのアルバムが、世界にEPICソニーの存在を知らしめることになったのです。「チープトリック・アット・武道館」は、EPICソニーのプロデューサーによる日本独自企画のライブ・アルバムで、日本で先にプレイクしたチープトリックが日本のための企画として制作することになった作品でした。これが本国アメリカでも発売されて、チープトリックにとって初の米国のプラチナ・ディスク獲得という快挙を成し遂げた歴史的なアルバムになったのです。この原盤権に対する米国からのロイアリティ収入は予想外の収入として設立直後のEPICソニーに大いに貢献しました。なにせ、国内でのアルバムセールスはかなりのヒットとはいっても12万枚程度でしたが、アメリカでのセールスは約10倍。この時に初めてアメリカのビジネスのスケールの大きさを実感しました。

 そのころの米EPICレーベルの代表的なアーティストといえば、ボストン、チープトリック、ジェフ・ベック、テッド・ヌージェント、ミートローフ、ジャクソンズ、スタンリー・クラークなどそして英国やフランスなどにはクラッシュ、ジューダス・プリースト、フランソワーズ・アルディ、カラベリなどが在籍していました。設立の年の後半にダン・フォーゲルバーグの「ツイン・サンズ」という名作が米国で大ヒット、200万枚のセールスを記録しましたが、日本では必死の宣伝活動にもかかわらず大した成績は上げられませんでした。日本の洋楽ロック界では現在で言う「ビジュアル系」のロックグループが人気で、ポップ界は第2次ディスコブームに入っていました。新宿を中心としたディスコの乱立、また竹の子族やパンク/ニューウェーブのムープメントもあり、全体として音楽シーンは活況で洋楽人気が高まっていた時期でした。このEPICソニーの設立のタイミングは、ソニーが「ウォークマン」を発売した時であり、音楽が室内から屋外へと持ち出されるようになったという点でも歴史的に大きな変化が起きた時代だったのです。ラジカセやミニコンポが登場したり、レコードはまだアナログでしたがカセットテープが音楽メディアとして大きく成長して、「ウォークマン」を使ったデモンストレーションなどが時代の先端として大いに注目されたりしました。また東京・九段の「日本武道館」はチープトリックのアルバムをきっかけとして、ビッグアーティストのコンサートの殿堂として世界的にも知られるようになり海外のアーティストにとっても日本が重要なマーケットとして認知されるようになったのも、この頃です。アバの大ヒット、ビリー・ジョエルはソニーのCMソングに使われた「ストレンジャー」でビッグになり、ディスコではサンタ・エスメラルダの「悲しき願い」のカバーが大当たり、アース・ウィンド・アンド・ファイアーは「ファンタジー」で一気に有名になりました。同じ頃イギリスから始まったパンク/ニューウェイブの波が日本にも波及し、特にファッションの面で若者に大きな影響を与えました。竹の子族とは対照的な「全身黒ずくめ」+黒サングラスのツンツン・ヘアーの若者が登場したのも、この時なのです。

 こうして1978年から1980年あたりを振り返って見ると、音楽やファッションといった流行のシンボルがすべて現在日本で流行っている物事の基本、基礎になっていることがわかります。当時、英国、米国は経済的にはドン底状態にあり、パンクやニューウェイプはそうした荒廃した社会から生まれた若者の新しい表現でした。1995年以降は立場が逆転して、日本が大不況の中で政治・経済が混迷しています。社会の動きに敏感な若者たちが音楽やファッションを通じて自己表現する時に漠然とした不満や出口や答えの見つからないイラ立ちが透けて見えることは、西欧化した日本人にも同様に起こっている現象で、当時の英国や米国と類似した点があるように思います。

 そういった意味でも1978年はバブルへ向かって突っ走り出す出発点となった年であり、1988年にEPICソニーが独立会社でなくなった時は、まさにバブル崩壊の直前の年でした。こうして改めて考えると「EPICソニー」という会社は、日本のバブル経済そのものを体現していたとも言えると思います。